突然ではあるが、ここで、とある長文を引用する。

無限の猿定理という、面白い話がある。
内容は、「猿が適当にタイプライターを叩いても、必要十分な時間を掛ければどんな文章もいずれは完成するんだぜ、スゴくね?」というものである。
何故猿である必要があるのかはわからないが、成る程興味深い話である。
だがよく考えてみてほしい。
タイプライターのキーの数は、物によるが、おおよそ100個程である(らしい。出典Wikipedia)。
つまり、「a」を打ちたい!と思っても、適当にタイプライターを叩いて「a」が出る確率は、1/100であり、またこれは全てのキーに当てはまる。
そのため、ある任意の文字列が偶然導出されるために必要な試行回数は、桁外れなモノになるのである。
例えば、「banana」という文字列を弾き出したいとする。
単純に計算すると、100の6乗分の1、つまり、
1/1000000000000
(1京分の1)
である。
1日に1000回カタカタやったとしても、10億日(≒約274万年)掛かるのである。
ちなみに今から約274万年前は、俺らのド先祖・アウストラロピテクスが闊歩していた時代である。
「このガム、いつから噛んでたっけ?」でお馴染み、ストライドのCMに通じるものがあるかもしれない。
しかし、この無限の猿定理の面白さはここからである。
それは、「必要十分な時間(←クセモノ)さえ掛ければ、例え猿でもシェイクスピアの『ハムレット』を打ち出せる!」という、ぶっ飛んだ命題である。
確かに、理論上、これは不可能ではない。しかしこれを現実に当てはめると、エラいことになる。
ハムレットは、数万字の文字数を有する、シェイクスピアの大作である。
つまり!猿が゛たまたま゛ハムレットを打ち出す回数は、単純に
1/100の数万乗
であり、Wikipediaによると
1/10の360783乗
であるという。
あえて無理やり数の単位で表すと、
1/5637無量大数
となる。
゛あえて゛無理やり0で表すと、
1/56370000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000
である。意味わからんね。
ちなみに、今現在で、宇宙が誕生してから約138億年が経過しているという。
56370000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000
と
13800000000
では一切比べ物にならない。
ケジラミがブロリーに挑むよりも色々絶望的である。
身近な比較対象が浮かばないが、この全宇宙を満たすのに必要な砂粒の数でも、5637無量大数の足元にも及ばないと言えば、そのスケールのでかさが伝わるであろう。
こうして桁外れな数を考えれば考えるほど、俺達人間は、自らのちっぽけさに気づかされるのである。
例え人間がどれだけ悩んでも、焦っても、宇宙からみれば「一瞬もエエとこ」なのである。
身近に迫った試験、自分の将来……
避けられない現実に直面して、余裕を失ったときにこそ、このような達観した考えが必要だと俺は思う。
「ヤバい!対策間に合わない!…ま、宇宙からみれば一瞬か。よし、焦ってる暇あったら少しでも対策に使おう」
結果としてプラスになり、場合によっては自分の意外なポテンシャルにも気づくかもしれない。
無限の猿定理を通じて、また1つ、森羅万象を司る宇宙の素晴らしさを学べたのである。宇宙様々。
…という内容のメールを朝6時に、ある友達に送りつけてみた。返信が楽しみである。
ということでそれを踏まえて、ここから本題に入ってみたい。
この文章はそもそも何?

この文章は、22歳の僕がmixiにアップしていた当時の日記だ。不思議とこの文章を書いたときの状況は、今でも朧げに覚えている。(数学が苦手なのがバレバレだが)
何らかの理由で夜寝付けず悶々としていたとき、その時間をせっかくならば他のことに使おうと、布団の中でガラケーでカタカタと一生懸命書いたのが、先の長文なのだ。
自分で読んでいてもやはり、これは僕の書いた文章だと判る。正直、青臭いところも多々見受けられる。クローズドな対象に向けて書いた話なので仕方ないことだが。
だが同時に、”今とは違う”何かも、そこに感じ取れている。具体的には、今の文章には無い何か、という話だ。これは自分でどれだけ考えても、仮説にすら至らない。
そしてそもそも、それは無くなってしまったのか、はたまた僕がそれを忘れているだけなのか、それも考えれば考えるほど遠ざかっていく感じがある。
だから視点を逆にしてみた。仮に22歳の頃の僕が、34歳の今の自分の文章を読むとしたら、どんな感想を持つだろうかと考えてみた。
…想像に難くないが、きっとこう思うと、すぐに辿り着いた。
「年を取ると人ってこうなっていくのか、なんだかんだで遊び心は薄れるんだな」
そう、今の僕の文章は別にどこにも、クスリとさせたいという思いも無ければ、自分が思う”面白さ”を言葉にして伝えようというつもりも無い。
このブログの読者は突き詰めれば未来の自分しかいない。自分でも言い得て妙だと思うのだが、全ての記事は僕から僕への業務引継ぎでしかないのだ。
…ただ、ここまで書いて気づいたことがある。このブログはあくまでそういうコンセプトだからそうなっているけど、実は僕は、他にもブログを開設している。
その中でも趣味に特化したヤツから記事をコピーし、ChatGPTに分析を依頼してみた。”あの頃の僕”は、こっちの中であれば、生きているのではないか?
その結果が以下の通りだった。こう考えると、結構指摘は「ごもっとも」である。よく考えれば僕の素の部分など、この講師ブログで書く必要が無いってだけなのだ。

そう思うと、途端に肩の力が抜けた。と同時に、思ったことがある。その素を出せる時間や場所、環境は、本当に大事にしておきたいな、という誓いだ。
それが完全に失われたとき、僕はこのブログにあるような、常に自分の思考さえ推敲する、そんなモードで居続けなければいけなくなる。それは楽しい人生なのか?
ということで、過去の自分のエッセンスを探す旅は、僅か記事2つで結論に辿り着いた。探すまでもない。ちょっと環境を変えたら、まだ普通に居たってだけだ。
しょうもないが、同時になんと、安堵するオチだろうか。この結論を愛しく思う。では今日はこの辺で。