最近メタ認知獲得・強化の一環として、自分の中にもやもやするもの、いわゆるネガティブ思考が立ち込めた際は、全て最寄りのメモに書き殴ることを徹底している。
これまでもそれはやっていたことではあるのだが、さらにその頻度を増やし、そのルールを厳格にして、取りこぼしは一つも無いくらいの勢いで進めている。

今日もさっき、暫くクヨクヨして落ち込みそうな出来事を受けたばかりだが、それを脳内に置いておくことは止めて、とっととメモに書き出し、しげしげと眺めてみた。
すると、そこに出てきた悩みに対し、”僕のメタが自然と答えた文言”が・・・・我ながら本当に、同じ人間から出たとは思い難いほど、冷徹だったのに驚いている。
それでいて、その回答には「確かにそうだな」と思わされる納得感が伴っている。言葉は強いのに、不思議と言い返そうという気にならない、というか。
その中には不満は微塵もなく、何かを我慢し、堪えているという感覚もない。本当に不思議な対話だと感じる。今日はその一部を、ブログとして書き起こしてみたい。
甘えん坊の顕在意識を竹刀でシバくかの如く。

端的に言えば、まだ点数が出ていない段階とはいえ、定期テストの点数が激しくヤバそうという焦燥し切った連絡が、僕ではない別の講師に行ったという話だ。
その方が対応してくれたのでガス抜きはできたようなのだが、この一件によって、僕の顕在意識の方は簡単におろおろ、あわあわと忙しなくなってしまった。
だから書いた。悩みそのものというより、それに対してどういうコメントをしたいか、それだけを意識して、メモにしたためる。
すると例えば、「焦燥した状態にこちらも感染するようなことはNG」とか、「今思えば‥といった思考は全て後知恵バイアスに過ぎない」という言葉がスラスラと出た。
それは更に厳しさを増していき、「お前まで自棄になるのは最悪手」とか「そんなに全責任を怠慢で片づけられるほど、こちらがテコ入れしてないわけない」と展開。
そしてトドメは、「お前は結局、悩んでいる自分に酔っているのではないか?」とか「自分を責めれば許してもらえると思ってないか?」と唾棄される始末だった。
これは第三者に言われたセリフではない。僕が、僕に、自然と、スラスラと、書き出したセリフなのだ。なんとも冷徹な物言いである。
だが、これくらいの冷水でないと、暴走した偏桃体ともいえる部分は決して鎮静化してこない。そういうことなんだと思う。
あまりにも俯瞰的かつ客観的な自己。闇遊戯みたいなこのモードが、常に自分に発動してほしいくらいの頼もしさを覚える。顕在意識はお譲りしますよ、と。
―それにしても不思議な話だ。脳内にこれらのネガティブを置いたままだと、最短で半日は悩む僕なのに、紙に書いたら10分も経たずに脳を穏やかにさせられるとは。
考え事が好きな癖に、脳内に置いておくのが苦手。どれだけ要領が悪いのだと今更呆れるところもあるが、コツがわかったならこれからは意識的に再現できる。
感情的な僕と、冷徹なほどに理性的な僕を、密にやり取りしていく。紙とペンは、いわば千年パズルと同じで、それらを媒介するツールのような物なんだと思う。
「もう一人のボク」に、武藤遊戯はパズルを組み立てることで、出会うことができた。僕にとってももう一つの僕に出会うには、ただ書けばいいなら、話はよほどラクだ。
ただし、こうなるともう1つ、気になることがある。この冷徹な方の分人は、いつ・何のために創られた人格なのか、というものだ。
自分の与り知らぬところで、もしかしたらちょこちょこ顕在化しているのかもしれないが、それは僕にもわからない話だ。ここを紐解くのも、なんか楽しそうである。
ということで脳みそを振り絞り続けるような時間をずっと過ごしたため、すごく厨二くさい文章になったけど、今日はこの辺で終わりにする。