僕は疲れているのだろうか。本当に変な問いだが、たまにそのことをぼんやりと考える。どうにも、”そうではない気がする”としか思わないからだ。
勿論これ自体、いわば一つのバイアスであり、実際は身体のどこかに取り返しがつかないほどの疲労が蓄積している可能性もゼロではないと思っている。

・・・だが、例えば【心の疲れを取る技術】にも書かれていた、”微細な身体の不調や痛みのようなものを大げさに汲み取ってみる”という方法も、あまり響いてこない。
別にどこも痛くないし、階段を上っていて息が切れるということもない。現状がつまらなさ過ぎて涙を流すこともない。毎日寝れるし、食う飯は美味く、うんこも出ている。
ゆえに、休みを取る理由が本当にない。だから取らない…というのはここに何百回も擦った話に違いない。疲れていないのに、休む理由はぶっちゃけ、無いのだ。
勿論、疲れる前に休むとか、そういう軍隊のアドバイスも承知している。だが、疲労自体をさほど感じないままに休みを取っても、それってサボってるだけなのではないか。
どの観点から自分に問い直しても、やはり世間が言うほど、”休みを取らないといけない理由も必要性もわからない”というのが本心なのだ。
そしてその過程で、これまで記事はおろか、言葉にもしたことが無い僕の思考の癖が急に浮き彫りになり、その”病気っぷり”にかなり驚いている。
今日はそんなお話を以下まとめていく。
休まないとダメな人アピールがめんどくさくて仕方ない。

このテーマを考えていた際ふと思い出したのは、小学校・中学校を病欠した日のことだ。それは風邪だったか、インフルだったか、仔細は忘れてしまったのだが。
その日は朝から発熱し、学校を休んで病院へ向かい、点滴を打ちながら横になって、薬を処方してもらい、帰宅した。病人である以上、そのままずっと、寝ることになる。
ただ、薬の効果が覿面に出たらしく、大体お昼の時刻になる頃にはすっかり熱も下がり、なんなら普通に外で遊べるくらいの元気が蘇ってきたものである。
それ自体は素直に喜べばいいのかもしれない。だが小学生の頃の僕は、今考えても恐ろしいほどの、ある早熟過ぎる考え方をしていた。
それは、”学校を休むという選択をした理由である病気が、こんなにすぐ治ってしまうなんて、なんと決まりが悪いことなんだ!”という気持ちだ。
今風に言えば、「自分は嘘をついていると思われるのでは?」というインポスターな心配だ。(正直、周囲の人がそんなに自分に関心があるわけないのだが)
―それ以来、ある種の契約や約束を、何かしらの理由で断らなければいけないときは、その原因たるコンディションで”在り続けないといけない”と思うようになった。
インフルエンザで病欠をするなら、少なくとも3~4日は発熱してないとおかしい。体調不良で欠席するなら、せめてその日はずっと家にいないとおかしい。
逆に言えば、平熱で、頭痛もなく、その他不調も感じず、別に大きな怪我も痛みも無いのなら、それは休みを取る必要がないサイン、という風に捉えるようにもなった。
メンタル的にちょっと不調だとしても、24時間丸々空ける必要はないだろう。僕は僕に対して、どうしてもそう課したくなる。(そのくせ、他人がこういうと、僕は『制止できる』)
これらをまとめると、僕は「休んでいる限り、休むことが必要な人であることを”社会というより自分のメタに”証明しなければいけない」と感じているようだ。
それが満たされない限り、僕はどうにも”嘘をついてサボっている”という感想を抱くらしい。原体験は小学生だが、これが急激に強まったのは、ここ数年の話だ。
しかしながら、一つ救いとしては、理由がきちんとあるオフであれば、僕はその時間をすごく大事にして、それに没頭することができる。
実際今日も、大学の先輩の誕生日を祝うために、結構強引にオフを取ったのだが、その選択をした自分も、そのために奔走した自分も、特に何も感じないのだ。
なんというか、「当然のことをした」という、それ以上でもそれ以下でもない、というか。なぜならそのオフには理由があったからだ。
そして、シンプルに疲れたのなら、飯を食って寝ればいい。メンタルがキツイなら、筆記開示をしたり、瞑想をしたりすればいい。その行動に休日が要る理由はあるのか?
僕は休むのが下手というより、休むということを誰よりもオーダーメイドし切った結果、自分にとっての最適解がスタンダードなそれとは乖離したということなのだろう。
この価値観は、掘れば掘るほどどんどん埃が出そうなものだが、それを出し尽くした先に何が残るか、それは見てみたいなと思っている。
では今日はこの辺で。