精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【仕事のペルソナ】を創ることが、僕にとって色々なドミノの1枚目かもしれない。

僕はここ1~2年意識的に、【自分の素の部分】をそのまま仕事の分人に用いてきた。策を弄さずありのままの自分で在ることが、僕の武器だと思っていたからだ。

 

だが最近、いわゆる講師の所作に極めて厳しい保護者がいて、その方が移籍してくるという話が持ち上がり、それを使うわけにはいかなくなったという事情が生じた。

 

例えば、その人なりにフランクに子供と接した結果、「幼稚な言動をする講師」と家に伝わってしまうらしいのだ。(もっとも、どこまで”フランク”かを僕は知らないのだが)

 

―となると、僕の精神年齢9歳の分人で相対することは極めて危険となる。別にそこに迎合しなくてもいいかもしれないが、無駄なトラブルは避けるに越したことは無い。

 

・・・それに、僕は実のところ、素の自分を発露させている”がため”に、何か一つ抜け出せないというか、詰めの甘さや覚悟の説得力の無さがあるようにも感じている

 

そしてそれらは全て繋がっていき、果ては「そもそも自分が休みを必要としていないこと」にまで、その根っこが広がっているとさえ思えてきたのだ。

 

つまり、こうなる。【仕事のペルソナ】を創ることが、僕にとって色々なドミノの1枚目かもしれない。

 

以前もこんなことをテーマに記事を書いた気がするけれど、その時とは比べ物にならないほどの手応えと、経験則が手に入った状態で、この記事に臨めそうだ。

 

そういう意味ではどこまで字数が膨らむかピンとこないのだが、以下なるだけ、丁寧に書いていこうと思う。

 

 

「素の自分」は、あくまでプレイヤーの人格のようなものであり、つまり戦場には出さない方がいい。

 

このことを考えた際、真っ先に閃いたのは【格闘ゲーム】だ。もうほとんどやらなくなったが、特に大学生の頃は、それを毎日やっていたくらいハマっていた。

 

ところで、僕の”素”には、誰かを殴ることが好き・・なんて部分は全く存在しない。それを考えると、素をゲームに投影すると、一撃さえ当てられないほどの体たらくになる。

 

なんなら今やっているアクションアドベンチャーゲームにおいては、無礼を働いたNPCに挑発をして焚き付けたり、カウンターを狙って大ダメージを与えたりしている。

 

暴走族に絡まれれば単身乗り込んで大立ち回りをするといった風に、絶対に現実世界では取らない選択をバンバン取っている自分に、どこか爽快ささえ覚えるほどなのだ。

 

これはなぜかというと、俯瞰している自分と、操作しているキャラクターが完全に別物であることを、意識の総体で理解しているからではないかと思っている。

 

素の部分は、キャラをより効率的に動かし、ストーリーとしてより楽しくするために必要なものだとは思う。だがそれを、そのまま矢面に立たせるとなると、違うだろう。

 

僕が思うままに選択し、行動し、その後の展開に身を晒す。その結果を全て、僕がそのまま引き受ける。これだけ切り取るなら、なんとリスキーな話だろう!

 

バーチャルの世界で暴言を吐かれても別に平気なのは、それが自分に言われているわけではないからだ。殴られても痛みを覚えないのと、全く構図は同じである。

 

ただし、現実世界において、それを全て己が引き受ける形にしている。それが今の僕だ。これはなんとも、危なっかしい。それでいて、なんと未熟な御し方だろうか

 

最近、【菜の花の沖】という小説を読んでいるのだが、その中で主人公の高田屋嘉兵衛が「その稚気を捨てぬように」といい意味で言われる場面がある。

 

だが嘉兵衛は、好奇心に突き動かされることも”あれば”、船頭として年長者の言動をすることもあり、畏まるべき場においては口上も淀みなく述べられるのだ。

 

一面だけで生きてはいない。分人を使い分けながらも、そのそれぞれが羨望と人望を集めているのが彼の最たる魅力なのだ。

 

当然方々で衝突も起きているのだが、その際の喧嘩の分人も、土地ごとに異なっているような描写がある。一本筋と言われるが、意外とその発散は多彩なのだ。

 

・・話があっちゃこっちゃになって申し訳ないが、ここでまた思い出したものがある。それは斎藤一人氏が、弟子の一人に語ったある考え方だ。

 

その内2つを思い出す。1つは、「どんなに嫌な人間も、何かをあなたに教えるために神から遣わされた巡り合わせのようなもの」という内容だ。

 

そしてもう1つは、「自分が苦しいときにやり方を変えないままだと、それを理解するまで天は同じ試練を何度でも課す」というものである。

 

実は今回のシビアなご家庭の移籍が結構キツかったのは、つい最近まで、似たようなクレーマー気質のご家庭に粘着されていて、それから解放されたばかりだからなのだ。

 

・・ほぼそれと入れ替わる形でのこの出来事には、何か形而上の力を感じざるを得ない。だからこそ閃いたのが先の教えなのではないか、と思う。

 

僕はそれまで、素の自分で応対していた。だから消耗し、傷つき、やるせなさを感じていた。だからその痛みを、ひたすら耐えたりケアしたり、対症療法で乗り切ってきた。

 

だがそれが”違うからこそ別の相手が現れた”のだと捉えるなら、僕がすべきはその手段自体の変更だ。となれば試せる手法は、仕事用の分人をきちんと創ること、となる。

 

自分の甘さ、不甲斐なさ、どこか本気に欠ける点を、僕の素の部分に押し付けるのはいくら何でも酷ではないか。冷静になって俯瞰してみると、ようやくそこに思い至れた。

 

そういったストイックさは、必要に応じて押し引き出来ればいいのである。例えばプロのアスリートが闘争心を常時出していると、友達はゼロになるだろう。それと同じだ。

 

僕の頭の中に点在していたあらゆるものが急激にまとまっていき、何か一つの巨大な答えに至りそうな予感がある。そのためにはまだ、何かのピースが足りていない。

 

それはさらなる内観なのか、それとも実際に何かに見て触れることなのか。それは現時点からは見えてこない。だがやはり、仕事の分人は全ての始まりとみてよさそうだ。

 

本当に守りたいものを守るためにも、それは要る。久しぶりに何か心が躍る感じがしている。その理由は、よくわからないのだけれども。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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