もう何年も前のことになるが、英語か何かの課題で「あなたの周りの大人を紹介する」というのが出て、そのお題に僕を選んでくれた中学生がいる。
なんとも微笑ましい話だ。僕のデフォルメされた似顔絵も添えられていて、どこかほっこりした感想を持ったのもつかの間。最後の一文に、僕は釘付けになった。

「彼は心に闇を抱えている。」・・・・・。確かにそう書かれている。中学生のやや拙い英語ではあったが、どちらにせよ、そう書かれている。
その日以来、僕は周りから、”心に闇を抱えている”と見られているという自覚が芽生えた。だから何かを変えたかというと、そんなことは無いのだが…。
しかし、それは別に悪いことではないと、最近は受け入れている。なんなら、「心に闇を抱えている状態」についての解像度が上がったため、違う想いを今は抱いている。
実際僕はもし、仮に今そう評されたら、”俺のやっていることは間違ってないということか”と思う気がする。今日は以下、それをテーマに記事を書いていく。
演出・庇護・自己嫌悪。

昔どこかで僕は、自分の本性について「繭の中で色んな可能性を夢見ている芋虫」と表現した。挑戦しないことで、自分を守っていると、自分で自分を冷笑する意味として。
だがそこから3年以上経ち、それは少しズレていると思うようになった。僕は芋虫というより、ある意味純粋な子供の部分を残していると考える方が合っているだろう、と。
自分の中にはまだあの頃の、未熟だけど好奇心は旺盛で、色んなことを追いかけまわし、それでいて他人に対してどこか純粋で、無責任に信じて・・・そして、傷つく。
素の自分はそういう危なっかしさがある。そのことを僕は、2025年を通じて学び続けたのではないかと、今なら思う。
2025年は色々となりふり構わずに結果と成果を求めた。そのために僕が採った手段は、いっそ自分の心の声に正直になり、素の自分を仕事でも発露させることだった。
僕が採ると決めた属人化戦略のためには、他とは異なる”僕らしさ”が必要だ。そう思ったら、演技の力を磨くのではなく、自分のオリジナルを出した方がいい、と。
しかし、世の中は甘くなかった。僕は素の自分で向き合い続けた結果、理不尽な人、状況、ネガティブ、出来事、他者の不幸、その全てでいちいち、傷を負った。
その様子をどこからか僕は見ていて、その時の苦しみは、あたかも自分の子供が体罰によってしごかれる様を見るのに等しかった。血を分けた子供などいないのに、だ。
そんな日々が続き、臨界点を遂に超えたのか…最近、遂に心に誓い直した。僕は、僕をきちんと護るために、きちんと仕事においてはそれ用の分人を持とう、と。
どんな心無い言葉も、不条理な出来事も、全ては鎧の部分で受け止める。それを可能にするため、僕はイチから、自分の身の振り方を見直すようになった。
”僕はこう思う”ではなく、”この場合はどう考えて行動するのが好ましいのか”を考える。自分がしたい恰好ではなく、自分が在りたい人物は何を着るか考える。
素の自分の感性をなるだけ介在させず、かといってそこから遠くない思考をする分人。これを心掛けると、不思議と口にする言葉も姿勢も変わるから、本当に不思議だ。
―そんな僕だが、生徒とのやり取りなり、保護者との問答なりの中で、うっかり素の部分で応対してしまうことは、まだどうしてもある。そしてその度、自己嫌悪する。
これは後悔と言ってもいい。僕はその不快感情を隠しているつもりだが、感受性の鋭い子たちは、それを察知してくることもある。それが心の闇の正体ではないか。
普段見せる姿とは違う一面が見れたのに、本人はそれに対し自己嫌悪のようなものを抱いている。この二面性は、”どちらが本当の人格なのか”という問いを生む。
不安とはどこか、暗闇の中に霧が立ち込めていくようなものだと思っている。そして未知や疑問とは、その不安を心に生じさせる一番の材料なのだ。
つまりこれは、自分が意識して、素とは異なる分人を平素は発露できていることの証明だと僕は考えている。そうでないなら、あなたはこんな人、で終わるからだ。
自分で言い切ると厨二くさくてダサくも聞こえるが、僕ははっきりと、自分の中に闇を抱えていると言える。だが僕に言わせれば、その”闇”こそ、守りたい自分の核だ。
その日以来、実は生徒から心に闇を抱えているなんて言われていない。だからこそ、”まだまだだな”と思う。もっと、鎧の完成度を高めないとな。
では今日はこの辺で。