精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「親の気持ち」が急に理解できた‥気がする。

依然としてずっと、家から一歩でも出れば(即ち私的に親しくない人に見られる場に出たら)、いわゆる余所行きの分人をずっと憑依させようと努めている。

 

それがどこまで、他人から見てもそうなのかを定量化するのは困難だが‥主観としては、自分の思うことや発言から、選ぶ服や髪形まで異なってきているから面白い。

 

だが、副産物はこれだけではなかった。色んなことをすっ飛ばして書くが、僕はなぜか、いわゆる「親の気持ち」が理解できつつある気がしているのだ。

 

今日は似非なのは承知で、僕が今感じている親心と、その理由を紐解いてみたいと思っている。

 

 

感情を見守り制御する役目。

 

僕の素の人格は未だに精神年齢9歳で在りながら、やっていることの愚かさと幼さは、もっと年端もいかない子供のそれなのではと思っている。

 

自分の素を素直に表に出していると、不都合の方が圧倒的に多い。それでいて、自分の深層心理ごと深く傷を負うことも多い。つまり、メリットの方が少ないのだ。

 

感性に従うことはもちろん大切だ。だが、それも管理があれば、の話だ。安心・安全が担保されたところでそれが発露してこないと、ケガをするのはその子なのだ。

 

また、その子の欲望・感情に対し、親が素直に従い過ぎると、それはそれで対外的な目も、その子の将来も、決していい影響をもたらさない。

 

店内で泣きわめく子供がいる。その場を収めたいからと、物を買って終わらせる。するとその子は、【泣きわめけば目当ての物が手に入ると学習する】。だからダメなのだ。

 

ここで必要な目線は、どこまで感情的なものや、周囲の目に対し、理性的・冷徹で在れるかどうかだと僕は思っている。癇癪が起きているその場以外も見る力だ。

 

―時折僕の中のガキな部分が、色んなことを脳内に生じさせる。不安だ、怖い、めんどくさい、怒られたらどうしよう、人がいなくなったらどうしよう…と。

 

これらは全て、親の袖を掴みながら、必死で「ねぇ、天井が落ちてきたらどうするの?」と縋る子供のように見える。親はそれに対し「杞憂だ」というべきではないか。

 

勿論それは一般論ではないと思う。だが僕の性格を思うなら、感情的な点に共感を示されるより、論理的に切って捨ててもらう方がよっぽど救いになる

 

素直に、無邪気に、それでいて残酷なまでに感情をむき出しにする子供。それに対し、その子の将来、環境まで俯瞰し、理性で接する大人。

 

最近僕は、僕の素の部分を前者、習得しようとしている理性的な分人を後者と位置付けて過ごしている。その結果、なんか親子関係に似ているなと、そう思うに至ったのだ。

 

時折子供と同じ精神年齢のような父親も見かけるが、そんな彼だって、子供が危ない目に遭ったり、目に余る言動をしたりした場合は、”大人として”叱るだろう。

 

僕もそれと同じだ。なんか変な話だが、最近僕は僕の感情面を、”よく叱る”。したくない、やりたくないというメタに対し「うるさい、やれ」とだけ言い、実行させる

 

ただし結果、何らかの苦しみやもやもやからの解放がまず間違いなくセットでやってくることから、僕の感情面は理性面に、ほぼ必ず感謝することになる。健全な話だ。

 

ここまで完成した、割り切った親子関係は多分この世に存在しないものだとは思うのだが、自分の未熟な方とそうではない方の間では、それは可能だと思っている。

 

もちろんまだまだ、時折子供が芯を食ったような質問を大人にして、大人がその答えに窮するように、情動面からのコメントに理性が口ごもる場面は存在する

 

その際は「まだまだ修行中だな」とだけ思い、メモに起こして、しっかりと考える。考えたうえで、また子供の面としっかり向き合う。本当にこの繰り返しだ。

 

と同時に、この素の部分に対し何らかの苦言を呈されることがあれば、たとえそれが正解のコメントだとしても、そんなことを超越して理性の側が憤る感じもある。

 

子どもを守るためなら、理不尽だろうが修羅になる父親・母親はたまにいるが、その気持ちをずっと理解できないままでいた。

 

だが今は、少しなら共感ができる。本当に守りたい大切なものが危機に晒されたとき、その構図に介在する道徳的・社会的な規範など、関係ないからだ。

 

それを踏まえて具体的に何をどうするかなどまだわからないが、そういう面で急に自分の中で”成長”が見られたのは、面白いなと思っている。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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