精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕が家族ー特に子供を望まない理由が、性嫌悪以外に解ってきた。

度々公言しているが、僕は子供が欲しいと全く思わない。人生を通じて考えたことのないIFストーリーだと捉えているくらいだ。

 

実を言うと、それは「子供が嫌いだから」だと思っていた。そういう面も否定しないが、それを理由の全てにしてしまうには、あまりにも弱いなとも感じていた。

 

他に誂え向きな理由としては、「性嫌悪症だから」というのがある。僕は性的なコンテンツを見ると、ものすごい拒否反応が出るという、ある種特異な体質をしている。

first-clinic.jp

 

そんなのを抱えているので、多くの人が求める身体のスキンシップ全てが猛烈に気持ち悪い。そんな苦行を経てまで、僕はやはり、子供を欲しいとは思わない。

 

かといって、体外受精をしてまで授かりたいほど、自分の血を残したいという欲も無い。僕はこのまま、両親の男系血統を断絶させて、墓に埋まるのだろう。

 

・・そんな感じで決着をつけていた自分のこの価値観だが、最近自分に起きている様々な出来事を考えることで、また別の理由が浮き彫りになってきた

 

そしておそらく、その理由の方が自分の本心に近いように思う。ということで以下、それを書いてみたく思う。

 

 

自分にとって特別な存在の人生を背負うなんて、僕には耐えられる気がしないから。

 

塾講師をしているとどうしても、合格・不合格の報告、そのどちらも聞かされる。合格は勿論嬉しいが、不合格になった子の報告は毎度毎度、骨身に沁みる。

 

自分が指導したせいで、この未来を引く羽目になったのではと悔やむ気持ちもある。もちろん、お前にそんな影響力は無いだろう、という声もごもっともだと思う。

 

本当に毎年、胃痛が襲う。僕の胃は多分ズタボロであり、癌家系でもあることから、僕はいずれこの蓄積したダメージによる胃癌で死ぬのでは、と結構本気で思っている。

 

特に最近は、この仕事を始めてからの歴が長くなったのもあり、5年~6年以上継続していただいたうえで受験に送り出すことも増えてきた。

 

それで結果が伴えば勿論いい。だがそうでなかったときは・・腹でも切って詫びなければいけないような、そんな後悔を抱く

 

本当にそう思うので書いてしまうが、僕は全受験生が志望校に受かるという結果になった年度に、講師を辞めてやろうと思っている

 

僕がこの仕事を続けている理由は、決して煌びやかな、自分がぐんぐん生徒を伸ばして、たくさんの子を救うんだ・・という熱く、呑気な動機ではない。

 

逆だ。僕は過去、力になれなかった子たちに対しての懺悔・贖罪をしたいからこそ、この仕事から逃げてないだけなのである。

 

・・それくらい僕は、人の人生を背負ってしまう。快の感情はそこまで覚えないくせに、辛い気持ちや心情は徹底的に慮り、憑依させるきらいもある。

 

突き詰めれば、縁あって出会った他人で、顧客と事業主という間柄に過ぎないのに、ここまでの反応が出る。となれば、想像するに恐ろしい問いが立つ。

 

それはこんな内容だ。「自分の子が、不合格になったとして、その報告に接した僕は、どうなってしまうのだろうか?」

 

”自分”の血を分けた、”自分にとって特別な存在”。護らねばならないし、そしてきっと、心の底からそうしたくなる存在

 

そんな存在が苦境に立ったとき、悲しみを背負ったとき、勝負所で報われなかったとき…僕は、正気でいられる気がしない

 

僕が子供を望まない理由は、きっとここにある。耐えられないからだ。自分にとって特別な存在の一喜一憂は、元来のそれを何倍も増幅したうえで、僕に刺さる。

 

そんなことが起これば、僕は壊れてしまうだろう。父親失格とかそういう次元ではない。その子だけでなく僕自身の人生も、全部否定してしまうのではないか?

 

僕は、人格も経済力も男としての魅力も、全てが父親・旦那・彼氏として、いずれも基準を全く満たしていない。そう自覚しているし、それに対して何も思わない。

 

それで本当に良かったと思っている。特別な存在を抱えるには、僕はあまりにも脆い。そんな存在はどうしても尊すぎる。欲しいとも思わない。

 

僕は高校生の頃から、「俺は誰の特別にもなりたくないし、誰も特別にしたくない」と常々思ってきた。その言葉の裏にあったのは、恐怖とでもいうべきものなのだろう。

 

僕は未だに、「励まされました」「助けてもらいました」といったコメントを、素直に”自分事として”受け止めることができない

 

いつも、「なにが?」と、きょとんとしてしまうのだ。人違いではないか、とさえ思う。未だに無条件の愛や好意や敬意がどうしても他人事に思えてしまう

 

”特別”にカテゴライズされる言葉や間柄の全てに、僕はどうしても警戒心を抱く。愛・信頼・恋愛・結婚・敬慕・尊敬、そのどれからも、僕は無縁でありたい。

 

その理由が、”特別な存在なんて抱えてしまったら、こんなに脆く、あまりにも繊細過ぎる自分は、破滅することになる”という予期にあるとしたら、納得感は強い

 

自分の能力で社会に貢献しながら、他人と関係を切り結ぶ。その際の距離感の限界は、僕の場合、【煎じ詰めれば他人である】と言えるラインまでなのだろう。

 

そこを超えてしまえばお互いが”特別”になる。そんな危うい関係性、僕は自分の人生に組み込みたくない。そして子供とはその究極体であり、だからこそ避けたいのだ

 

―果たしてこの論理は、僕の闇なのだろうか?何か致命的なバグであり、治療が要るものなのだろうか?それとも、「個性」で片づけていいのだろうか?

 

特別であるくらいなら、孤独であることを選びたい。子供を望まない理由を深堀していくと辿り着いたのは、また新しい、僕が知らなかった未開の地点だった。

 

またいずれ、腰を据えて考え続けよう。では今日はこの辺で。

 

 

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