僕が昔から憧れていたスキルに、「抜け漏れがない」というものがある。他人の甘さを指摘し、それをサッと修繕してしまうような眼力。それに心底憧れた。
周りの人の「こんなもんでええでしょ」を頑として許さず、緩い空気を出さず、かといって締め付けにもならない、いわば自走を促すための監督に徹する。
しっかりと基盤を設計してしまえば、あとは安心して転がせばいい。強度や設計が雑なまま送り出せば、いずれ些細な凸凹で跳ねて、空中分解するだけなのだ。
そして僕は、ずっと、”指摘される側”だ。校舎をなし崩し的に任された状態でありながら、その甘さ、つまり厳しさに欠けた感じが拭えず、割とずっと悩んできた。
客観性とは何なのか。健全な厳しさとはどうすれば養えるのか。それともそれは天性のものであり、持たざる者は今世はそのことに甘んじなければいけないのか…
というところまで悩んだが、今日本当に些細な気付きで、その苦悶は文字通り一瞬で氷解した。あまりにも呆気ない方法論を、偶然発見したからだ。
今日は興奮5割、呆れ5割くらいの比率で、この話を書いていきたいと思う。
人間誰だって自分の場所はカワイイ、ってだけ。

その気付きを得たきっかけは、別の校舎への出向だ。引継ぎこそ受けていたが、誰に何をするか、どこに何があるかが、色々と不明瞭で動きづらい。
当人なりに整理整頓ができているのは判るが、別校舎の人間が入った際に、場所ごとのテーマが見えにくい感じがした。あたかも初めて入る図書館のようだった。
結果として、あれはどこだ、これはなんだと確認作業がめちゃくちゃ発生し、到着してからの30分で10個くらいの項目を、そこを担当する人に聞いてしまった。
・・・というところで、どこか既視感を覚えた。そしてその正体には刹那に気付いた。自分が人から言われていたことそのまんまだったのだ。
そして、「あっ!」という驚きとともに、色々な心当たりを思い出した。例えば自分では綺麗と思っている部屋を煩雑と言われた日のこと、などなど‥。
このときだ。肩の力が思い切り抜ける感覚を覚えたのは。僕は客観性が無いわけではなく、自分が居る場所に対して楽観・主観のバイアスが掛かっていただけなのだ。
能力そのものが根本から欠けているわけではないのには安心したが、となれば続いて、このバイアスという厄介な敵とどう立ち向かえばいいか、という問いが生じてくる。
ということで次項では、現状の対処法について、暫定解に過ぎないが、思うことを書いていく次第である。
他人にしたくなった指摘をメモし、自分のコミュニティに還元する。

その対処法とは、「具体的に自分が何に困ったか、何をしてほしかったと思ったか」を言語化してメモに控えて、それを自分の職場に持ち帰って移植することである。
なぜならば、その大体は”できていないこと”であり、自分が評論家面して高尚な物言いをしたというだけだからだ。それを実行しなければ、ただただダサいだけである。
実際、その校舎で気づいた良いこと・悪いことを控えて持って帰ってきて、いざ自分の校舎でそれができているか観察したが、正直”ここの方ができていない”と思った。
如何に自分が、他人の「察し」に甘えていたかが如実に感じ取れて、ただただ、恥ずかしい。となれば、ここからの行動を基に改善することしか、僕にできることは無い。
ただ、このトレーニングは何も、同業のオフィスだけに限らないと気が付いた。コンビニでもスーパーでもどこでもなんでも、客として抱いた要望は、絶対に転用可能だ。
そう思うと、僕としては「また新しいゲームを発見した」という感覚が一番強い。我ながらトクな性格をしているなと、自分事なのに微笑ましく思う。
では今日はこの辺で。