この記事を書いているのは、3月11日(水)。つまり公立高校入試の合格発表前日である。正直入試が終わってからずっと、僕の心は異常なノイズをがなり立て続けている。
自分の合格発表を待つ期間の何倍も気がかりで、信頼と不安と、楽観と悲観を、絶えずスイングし続けることによるエネルギーで、胸の内が張り裂けそうになっている。

これこそが職業病というか、結果を待つ間のいわば必然的な痛みである…と片付ければ簡単なのだが、この”痛み”の最たる特徴は、判明さえすれば途端に失せることにある。
その特性があるからこそ、僕は悔しさもそこに抱く。こんなに僕を、黒い炎の如く内側から苛烈に焼いておいて、事が済むとどこか「美化」された記憶になって消えるだと?
それは許したくない。僕の中で煮えたぎるマグマのようなこの想い、”一切の言葉を選ばず”ここに書き出してやろうと思う。以下そんな話だ。
信じ、否定し、希望を見出し、絶望を見つける。

僕が願うのは当然合格という結果だ。だがそれ以上に僕が求めているのは、そもそも合否の発表が行われて、今の「わからないまま」の状態が終わることである。
あたかも「シュレーディンガーの猫」のような、どちらか確定しないまま、どちらもあり得る状態のままに置かれることは、生殺しも良いところである。
だから必然的に、仮初の安心を求めて、過去のデータをひたすら漁ることになる。過去の塾生で、この子と同程度、あるいはさらに低い点で受かった例は無いものか?
当然っちゃ当然なのだが、その例は枚挙に暇がない。しかし、”その子より上の点数で落ちた例”がぬたりと忍び寄り、僕の「安心したい」という気持ちをどす黒く塗り潰す。
過去の水準で言えば、見てきた生徒たちは「落ちる方が不自然」なくらい、内申点も、実際に取ってくる点数も、高水準を維持している。だが、それはあくまでデータだ。
試験本番でもそのパフォーマンスを出してきたかどうかはわからない。また、それによって合格できるかどうかも、当日受験生が何点取ってきたか次第なので、わからない。
とはいえ、その子たちの模試の成績は市内でも屈指の学力である中学校の上位10位に入っている手前、単純に”上から取っていけば”定員には余裕で食い込むはずだ。
―こんな風に、僕の心は、不安と、希望と、不信と、肯定と、そういった対極同士の感情を、角度を変えて何度もスイングし、電子軌道のようなものを形作っている。
その子が受かる理由も、落ちる原因も、どちらも即座に、交互に用意できてしまう。過去の自分の発言が、最悪な未来を引く伏線にも見えてしまう。
仮にこれで全員落ちたとするなら、自分は何を拠り所として指導に当たればいい?信じられるデータは何だ?そもそもその高校を目指させることが悪なのではないか?
未知による不安はどんどん矛先を変え、僕自身にも容赦なく突き刺さる。自分のこれまでも、そしてこれからも、その厳しい思考は徹底して否定にかかっている。
・・・だが、これもいわば一過性の、いわば趣味の不安のようなものだったらしい。こうして記事にしていく間に、僕はこういうことを考えること自体に、飽きてしまった。
ここで、一つ仮説を閃いた。結果が判らず不安な状態でも、デンと構えて動じない人というのは、もちろん元来のハートが人並外れて強いということもあるだろう。
だがもしかしたら、その皮を一枚捲ると、実は夥しい密度の自己嫌悪と自己肯定のスイングをやり切っており、ネガティブ自体に飽きているのではなかろうか?
なんかそんな風にさえ思える。考えても考えても答えは出ない。ただしその答えは、明日の今頃にはとっくに出ており、明日の僕はこれを考えていた事さえ忘れるだろう。
今は正直、その結果について、楽しみでも、不安でも、どっちでもない。いわば明日行われるスポーツの地方大会の結果くらいの重みしかない。
全員受かって喜びに浸っているのか。全員落ちて絶望しているか。あるいはそれらが入り混じった結果、全員笑顔にできなかったことを悔やんでいるのか。
正直、わからない。わからな過ぎて興味も消えてきた。あとは酒を飲んで、寝よう。起きたら全て、”終わっている”だろうからな。
・・・これが正直に今感じることだ。賛否両論あるかもしれないが、冷静ではないことが伝われば、僕はもう、それでいいやと思う。
では今日はこの辺で。