受験が終わった。厳密にはまだ国公立大学後期の発表を10日後に控えているのだが、自分の中ではハッキリと、”終えた”という感覚が強い。
そして今素直に思うことは…「また全員にとって最善の結果とはならなかったか」という口惜しさである。準備・指導に手を抜いたことは全くない。それでも、だ。

これを「受験とはそういうもの」と割り切ってもいい。また、「偶然の部分まで背負い込むなんておこがましい」と振り払ってもいい。だが僕は、それができない。
実を言うと、国立大学・公立大学・進学校において、今年は過去最高くらいの人数比で合格してくれた。それでも思い出すのは、実らなかった家庭の悲しい顔なのである。
とある塾長さんも書いていたが、今でも思い出したり、夢に出たりしてくるのは、”落としてしまったご家庭ばかり”なのだ。僕はどうしても、そこばかりを見てしまう。
だからこそ、「その裏でお前が救えた存在もあるじゃないか」と言われても、「そうかもしれないけど、俺が向き合うべきはそうできなかった方だろう?」とだけ感じる。
僕はやはり、”成功体験が積み重ならないタイプ”なんだろうな、と。そして”そうすること”がもはや自分の支え、下手すれば幸福の定義そのものになりつつある気がしている。
今日はそんなお話を書いてみたい。
自分の手柄のように書くやつを見ると慄然とする。

いつぞやも書いたが、僕は煌びやかなステータスで飾られた自己紹介を観るのがたまらなく嫌いだ。見ていて痛々しい‥を通り越して、嫌悪感を覚えてしまう。
それは嫉妬なんだろうと最初は思っていたが、自分を特別視している・させたいと思っている顕示欲の裏返しだと感じて、それ自体にもっと純粋に嫌悪しているらしい。
特に好きじゃないのは、「毎年〇人を国公立に送り込む‥」といった文言だ。知ってて書いているなら話は別だが、その裏で落としてきた人の顔は浮かばないのだろうか。
落ちたのはお前のせい。受かったヤツは俺の言うことを聞いて頑張ったからだ!‥と本気で思っているとしたら、それを聞いた瞬間ゲロを吐きそうな気がする。
それもあって僕は、それこそ合格掲示物を校舎に貼る際も、「仕事上、広報・宣伝のため、これは必要なんだ」と必死に自己暗示しないと、手が震えて作業が進まない。
不合格だった子を無下に扱っていると思われる気がして、本当に嫌な気持ちになるためだ。それ自体、凄まじく考えすぎなだけかもしれないが‥‥。
だから僕は、実は過去、いつ・誰が・どこに受かったかは、記憶からどんどん薄くなっていっている。だがその逆は、あの日のままかそれ以上の濃さで、どんどん蓄積する。
僕がこの仕事を”辞めない”のは、独りでも多く救いたいから・・ではなく、またこうして重ねてしまった不義を、一つでも贖罪したいからである。
だからこれは明確に断言するが、もしある年度の大学受験・高校受験が全員首尾よく受かり切ったら、僕は「引退」か「キャリア変更」を申し出ようと思っている。
講師としての自分は、自分にとって償いたいものが下りた瞬間、終わりにしようと思っているからだ。この仕事をしていて無邪気に楽しいなんて、もう言えないのである。
―この思いに至ってから、ずっと話を聞きたいと思っている人たちがいるのを思い出した。それは医師であり、自衛隊であり、警察であり‥つまり、命に関わる方々だ。
だが、ネットを調べてみても、その声はどこにも残っていなかった。救うことが仕事な彼ら彼女らが、目の前でそれを果たせなかったとき、一体何を感じ、何を抱えるのか。
そういう悲しみを背負った人たちは、たとえこれから命を1つ救ったとしても、俺はすごいなんて胸を張ることは無いだろう。静かに、ただ受け止める気がしている。
大げさには違いないが、僕も感じることは同じだ。信じてくれた人全員を幸せにできることなんて”不可能”なんて言われればそれまでだが、だが、そうしたいじゃないか?
だが、そうならない。8人救えても1人救えなかったら、僕は自分を肯定できない。そして、この段階において自分を全肯定なんてしたら、呑気もいいところだと思う。
正直僕は、合格はしてほしい。だがその実績を自分に飾り付けるのは拒否する。上手くいったら君らの頑張り、悪くなったら指導した俺のせい。これは信念になっている。
だが、自分がしたことについては、僕は逆のことをどうしても思う。上手くいったのは他力が働いたからだが、悪い結果だったのは自分の怠慢が原因なのだ。
先生のおかげなんて言葉は一番”言われたくない”言葉の1つになっているし、「お前のせいだ」と言われる方が、実はその何倍も、”直接的な救いになる”気がしている。
‥それに付随して、かつて生徒に、印象的なことを言われた。「なんであなたは自己評価が極端にそこまで低いんですか?」という風に。
その答えは明白だ。「俺が俺の自己評価を高くしたところで、幸せな人は増えないから」である。そもそも自分で自分を認めることも、実は気持ち悪いと思っている。
合格実績に浸ってひたすら緩んでいるヤツと、厳しい結果に奮起してまた指導・勉強に力を入れるヤツ。将来どちらの方が社会に貢献するか、答えは自明ではないだろうか?
誤解されそうなので念押ししておくと、僕はこのスタンスを”人に押し付けること”は絶対にない。周りには僕の価値観と真逆のことを、自然と、伝えている。
「この子が良い点だったのは、頑張った生徒と指導してくれた先生のおかげだよ!」と素直に言える。点が振るわなかったときは、何か外的要因がないか、必死で探す。
だが僕は、それを自分に言われることを想像すると、鳥肌が立つ。いつからかわからないが…僕は本来なら歓迎される自己肯定感を上げるフレーズを、受け付けなくなった。
こんなことを思いながら指導している講師に教わりたい奴なんかいないよな‥とも思うが、上手くいかなかったときの痛みから逃げる奴は無責任だよな‥とも思う。
僕は結局、どう在りたいのか。この出来事を通じて、また根底が揺らいだような気がしている。だがそもそも、根底があると思っていたこと自体、誤りなのかもしれない。
そういえば最近、「この仕事の何が楽しいか」、考えなくなってきた。そんな表層的な部分を、何の理由にもしていない自分がいる。
ではなぜ働くのか。その答えはさっきも書いた「罪滅ぼし」になるのだが、本当にそれだけなのかは、実は自分でもわかっていない。
‥ただこれ以上筆を進めても、カオスの度合いを増すだけなので、無理やりここで区切ることにする。自省は逃げない。また今度でいいのだ。
では今日はこの辺で。