精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

厨二みたいで恥ずかしいけど‥やっぱり僕は「幸せ」がよくわからない。

感情が揺さぶれる出来事が連続すると、思考はどうしても内省に向かう。特に自分の価値観・価値基準、そういったものの土台を、しげしげと観察してしまう。

 

その中で、前も記事にしたテーマではあるのだが、「自分の中で腹落ちしていない概念」にまた、辿り着いた。それは「幸せ」だ。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

前の記事では、「ネガティブな出来事が何も起きていない状態」を、僕なりの「幸せ」と定義していた。正直これでも、80点くらいの回答にはなっている。

 

だがこの理屈には、我ながらちょっと瑕疵があるような気もしている。「ネガティブな出来事が何も起きていない状態」とは、つまり非現実的だからだ。

 

これもまたどっかで書いた話だが、僕はしていて楽しいというより、「罪滅ぼし」のためにこの仕事を”辞めていない”という感覚が近い。

 

自分が関わったけど、望む結果を得られなかった人たち。その心に負わせた痛みを、僕が納得するところまでは引き受け続けたい。そう願っているからだ。

 

そしてその状態は、傍目から見れば辛く苦しい選択だと言える。だから僕は、”不幸”に映っているのだろう。実際そう心配されたことは何度もある。

 

・・だが実を言うと・・この感覚を自分が抱いていると確認するたびに、僕は安心を覚える。そして僕の「幸せ」は、その延長線上にある気がしているのだ。

 

今日はちょっと病みたいな胸の内だが、素直にここへ吐露しておこうと思う。

 

 

世間が言う成功や幸福に”ない”ことに幸せを覚えるらしい。

 

極端な物言いだが、シンプルに考えるために、「幸福でないなら即ち不幸、不幸でないなら即ち幸福」というのを前提に、以下思考実験をしてみたい。

 

世間が言う「幸福像」を頭に浮かべてみる。それは例えば、旧帝大や有名私立を出て、いい会社に入って、年収600万円は最低でも稼ぐ、ということかと思う。

 

そして子供は二人・三人はいて、休日は家族のために使い、立派なマイホームを建て、妻を大事にし、家族の幸せを自分の幸せだと心の底から信じられる・・・。

 

途中からすごく気分が悪かった。そんな人生、僕ははっきり言うが、”クソくらえ”だからだ。願いが3つ叶うとして、そこに絶対入らないと断言できる人生だ

 

つまり、世間が言う幸せを追求したところで、僕の幸せには全く寄与しないどころか、これは僕にとって、不幸な生き様だ。

 

ではその対極は何なのだろうか、考えてみる。年収の多寡もステータスとしての学歴も、どれもこれも、心底どうでもいい。

 

子供は守れる気がしないから要らない。中古の一軒家に憧れはするが、マイホームは興味ない。妻はおろか彼女も女友達も欲しいと思わない。

 

つまり、世間の幸せのモデルから「離れよう離れよう」と努めた先にある境地は、なるほど確かに「不幸」から遠ざかっていくのを感じる。

 

それは即ち、僕にとって「幸せ」の濃度が高まっていくのと同じ、ということになる。そしてそう考えていくと、「その通りだなぁ」と、我ながら感じる。

 

やはり僕にとっての幸福は、結果なりイベントなりといった”動的”なものではない。自分にとっての不幸には”ない”といった、いわば”静的”な状態を指すようである。

 

それは随所で見受けられる。例えば僕は、生徒全員が合格を果たすことを勿論願っているが、それが”叶った”際に覚えるものが無条件な幸福かと言われると、かなり怪しい

 

なぜなら僕は、好ましい結果や実績にしがみ付くことが嫌いだからだ。実際それに終始する人間を見ると、僕は強い嫌悪感を覚える。

 

だから自分がそうなることは、不幸に他ならない。ゆえに僕は、メタから説教を食らうというプロセスすら経ずに、それらをすぐ手放す意識のクセが染みついている。

 

2026年に漢検2級に受かったのだが、正直受かった瞬間から興味を無くしている。賞状はラミネートして壁に貼ったが、スコアシートはどこに行ったか分からない。

 

大学の卒業証書も手元に置いてないし、英検1級の合格証明書は下手すれば捨てたかもしれない。カッコつけてるわけじゃなく、マジで興味が持てないのだ。

 

だが、自分が過去の栄光を”見ず”、むしろその裏にあった自分の非、コミットできなかった人の存在、それらを忘れないまま生きる自分を、僕は肯定したく思う

 

功績・実績・箔ばかり見ている人は無責任極まりない。僕は死んでもそうなりたくない。それに近づくことは僕にとって間違いなく不幸だ。

 

逆に言えば、その対極に当たる行動・言動・意識をすることは、僕にとっての「幸せ」に近づくことに繋がる。そう思えば、一貫した自分の姿勢が見えてくる

 

他者から見れば「ネジが飛んでる」と評されそうな思考・価値観だろうと、自分がなりたくない自分から離れているのであれば、それは僕の”幸せ”に他ならない

 

僕にとっての「幸せ」が、スタンダードなそれから大きく乖離しているのは認める。だが僕にとって”は”「幸せ」なので、それを矯正する意味は解らない

 

彼女がいれば幸せ。年収が1000万円あれば幸せ。いい車に乗ってれば幸せ。偏差値が高ければ幸せ。子供と過ごす時間が幸せ。それぞれ尊いものだろう。それは認める。

 

だが結局、僕には合わない。酒を体質的に飲めない人が、酒を追求しないのと構造は全く同じだ。そこを嗤われても、知ったこっちゃない。

 

…気づけば2,000字を超えていた。もう満足ということにしよう。僕のこの辺の一貫した姿勢、今後も大事にしたいと思う。では今日はこの辺で。

 

 

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