僕は生きている間にこれを成し遂げたい・・という強い願望は全くない。どちらかと言えば、人生観は「死ぬまでの暇つぶし」と思う方がしっくり来ている。
これまでの記事を振り返っても、僕は全く”遺すこと”に興味が無い。先祖から託されたものを次々捨てて、最後は特に余韻も無く消えていけたら”どんなに最高だろうか”。

そういう意味で、僕は自分に特別な感情を抱く存在も、僕がそれを抱く存在も要らない。血を分けた存在も勿論だ。それらは全て、僕に色々なしがらみを遺すだけだ。
それよりもやはり、僕は死生観とか、散り様とか死に様とか、そういったものが見事な人たちを見ると、本当に美しいと思うし、どこか尊敬の念も抱く。
今もそう感じるのだが、僕はさっさと、人生最後のオセロを打ちたい。このフレーズが頭にパッと浮かんだので、それを丁寧に分析したいと思う。
万物は流転する。正解も不正解も入れ替わる。

「諸行無常」という言葉は、中学・高校の頃、「当たり前じゃん」と思っていた。仏教系の幼稚園にいたことが影響したのかな、と思う。
だが最近は、思った以上にそれは身近であり、想像の何倍もダイナミックな流れではないか、と思うようになったそれくらい、この世は常に、曖昧模糊としている。
印象的な例が2つある。1つは中学受験を失敗したが、その後3年間奮起し、県内1の進学校に受かった生徒だ。僕はその結果を受け、憑き物が下りたと、素直に感じた。
だがその後その生徒は、何があったかわからないが鬱病を発症し、学校に行けなくなり、そして退学するということになってしまった。
となれば自然と思う。僕がそいつを合格させる一助をしたことは、より大きな不幸を手繰り寄せるトリガーになってしまったのではないか?と。
逆の例もある。友人に一人、大学受験で浪人を選んだが、それでも合格叶わず、私立大学に進学したヤツがいる。彼はそこで、将来の伴侶となる存在と出会ったのだ。
人生が花開いたかのようだという様子がありありと伝わってくる素敵な結婚式に招かれて、「人生解らないなぁ」と、僕はワインを飲みながらそう感じた。
―過去の印象的な出来事を振り返ってみると、それらは全て「せいで」にも「おかげ」にも、変化しうることに気が付いた。
これからの人生にどんな石が打たれるかで、それらは容易くひっくり返る。そしてさらに将来の一石で、またくるりと入れ替わる。
だから人生は面白いという人もいる。逆に、人生はクソだという人もいる。曖昧な世界に絶対を求めたいという人もいる。曖昧なのを受け入れた方が良いという人もいる。
僕は今年で35歳なのだが、正直もう、そうやってクルクルと変わる過去や未来に、ほとほとめんどくささを覚えてしまっている。
今楽しくても、将来最悪の記憶の伏線に化けるかもしれない。今のクソみたいな経験が、将来の大きな成果の伏線に化けるかもしれない。
だから楽観も悲観もすべからず、という感じで結ぶ哲学もある。一時期そうしようと努めたが、当事者として激しく変化する経験を何度も減ると、流石に面倒だ。
故に思う。さっさと人生最後のオセロを打ちたい。今抱えている楽しい記憶は、もうそれとして。クソみたいな記憶も、もうそれとして。さっさと確定させたいのだ。
自分の人生にこれ以上曖昧なものを抱えていきたくない。それらを次々と更新したり忘れたりできる性分に生まれていれば、どれだけラクだっただろうか?
とはいえ、三島由紀夫のようにそれらすべての鬱屈を拾い上げて文学に昇華させるほどの熱量も才能も無い。抱えるクセに、抱えきる能力が無い自分。
昔はこの相反するものを、ひたすら第三者・他人事として受け止めることで躱していた。だが最近は、その無責任さを、自分のメタが許せなくなりつつある。
自分を守ろうとすれば、自分がなりたくない自分像へ擦り寄ることになるからだ。他責・逃避・非難・自慢…そういった全てを僕は絶対に口から吐きたくない。
僕はなりたくない自分から遠ざかることに満足と安心を覚える。世間が言う”自分を大事にすること”はどうにも、誰かのせいにしているかのようなニュアンスを覚える。
考え過ぎが閾値を超えてしまい、にっちもさっちもいかなくなっている今、僕は積極的に死にたいと思うことはないのだが、”死に様”にはやはりどうしても、心惹かれる。
毎晩浴びるほど酒を飲んでしまうのも、もしかしたら一種の破滅願望なのかもしれない。人生を巻きで進め、最後のオセロを手に取り、小気味よく打ちたい。
心が弱っているのかもしれないが、どうにも最近、そんなことを考えている。では今日はこの辺で。