受験の結果がほぼ出そろい、メンタルが凄まじく揺さぶられる時期が一応の終わりを見た。勿論まだまだするべきことは大量にあるが、区切りはついたように感じる。
結果が良かった生徒は、それでいいと思う。だが、結果が悪かった生徒に対し、不義なことは絶対にできない。痛みを受け止め、言葉にし、決して突き放さない。
こういう辛いときにさっさといなくなる大人はゴミ屑だと思っている。だから自分は決してそうありたくない。たとえそれが心身に大きな負担になっても、それが仕事だ。
とはいえ、現実は僕の都合などお構いなしに流転する。辛い胸中を聞いた数分後には、朗らかな笑顔と声で問い合わせの調整を入れることなどしばしばだ。
「辛く重い」気持ちになった際、そのまま何時間も過ごせたら、どんなにありがたいことかと、たまに思う。僕はすっかり、本心を見失うことが得意になった。
今日はそんな風に、感情について思うことをつらつらと書いてみたい。
「一つの感情で在れること」は、すごく贅沢な状態だ。
「一つの感情で在れたこと」の原体験を思い出すと、行きつくのは高校生の頃のとある記憶だ。その当時、僕はいっちょ前に失恋をしたのである。
県外へ進学することが決まったのもあり、ケジメとして告白をした。そしてフラれた。身勝手な行為の癖に、いっちょ前にふさぎ込んだ。
暫く記憶が飛び、気付けば僕は自室で元気を消して独りになり、その間色んな事を、ただひたすらに悔やんだ。あの日の布団は、やたらと冷たかったのを覚えている。
何日引きずったかは覚えていないが、本当に気が済むまでくよくよした。なんで告白なんてしたんだろう。なんで恋愛感情と勘違いしていると気づけなかったんだろう。
だが今思えば、これくらい一つの感情にしっかり囚われたからこそ、34歳になった現在では全くフラッシュバックしない、ほろ苦い記憶として刻まれたように思う。
要は、味わい尽くして、無味になったのだ。もうここから何の教訓も得られないし、この日を思い出してまで疑似体験したいような甘酸っぱい記憶も無い。
―ここまで徹底して、一つの気持ち・感情・後悔・・そういったものに浸れた時間は、以来いくつあっただろうか。一度社会人をドロップアウトした頃が最後かもしれない。
それは24~25歳の頃だ。となれば僕はもう、10年くらい、この贅沢な時間を過ごせていない、ということになる。そしてそれは、すごく納得だ。
今の受験生の結果にくよくよし続けていたら、次の受験生の指導がロクにできるわけはない。悲しい顔をしたまま授業をしていて、校舎の雰囲気が良くなるわけがない。
つまり、一つの感情を抱いたままだと、すぐにバグが起こるような忙しさ、環境に身を置いているからこそ、今はその時間は贅沢だったと思えているのだ。
あの頃は、表現は悪いが、僕は本当に暇だった。僕のいる世間は狭く、閉じていた。だからいくらでも、喜怒哀楽のイチイチに、ずっと浸ることができたのだ。
それぞれの感情を味わい尽くしても余るほどに時間はあったし、今よりも体力があった。泣いて笑って悔しがって怒って、それぞれにケリをつけてから次を向く。
今思えばそれは稚気そのものなのだが、大人になって真っ先に失わさせられたのが、この感情自体に対する丁寧なスタンスだと感じられる。
もちろんこれを失ったことによるメリットもあるし、ずっと一つの感情に浸ることのデメリットも大きい。一概に、良い悪いの二元論にはできないのだ。
とはいえ、それでいいのかな、とも思う。人の人生に曲がりなりにもコミットしておきながら、こんな事務的に自分の感情を扱っていいのだろうか、と。
辛いという気持ちはあるはずだが、”今は状況的に辛いと思っている方が好ましいから、そう感じているよう振る舞おう”という背景が無いとも言い切れない。
本心なのか、それとも巧妙なメタによる演技なのか。実は最近、”本心とは何なのか”が、人生において一番分からなくもなっている。
繰り返しになるが、やはり「一つの感情で在れること」は、すごく贅沢な状態だ。だから日常にあるようではマズいのだが、ずっとないままというのも窮屈だろう。
今度ソロキャンプに行ったときは、いかにして「退屈」を生み出して、自分の心にたっぷり向き合うかをテーマにしてみようかな。
数年ぶりの徹底した自己対話。何が見つかるか、楽しみだな。では今日はこの辺で。