精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕が「目上の人に死んでもされたくないこと」が意外・・・でもなんでもなかった。

僕は我ながらあまり根に持たないタイプだと自負しているのだが、過去受けた仕打ち・言動について、どうしても消化できないものがちらほらある。

 

大体は、僕の理性が「まぁまぁお前‥」という感じでぬたりと脳内に出てきて、懇切丁寧に僕の感情の方を論破してくれて咀嚼できるのだが、そういかないものもあるのだ。

 

これはいわば僕の地雷のようなものだと言える。僕みたいな、高校生の頃は多分親しみとナメを込めてだろうが「ホトケ」と呼ばれた者に、そんなのがあるとは、と。

 

そのどうにも咀嚼しきれない思い出を敢えて思い出して、丁寧に分析する・・・というのに、今日は暇だったので取り組んでみた。

 

そしてそれは、僕にとって意外でもなんでもなかった。昔からわかっていたことだった。今日はそんな、ただ追認しただけの話を書いてみたい。

 

 

僕の〇と〇〇を粗雑に扱う者に優しくする気はない。

 

それらはどれもこれも、僕の金と時間を粗雑に扱われた記憶ばかりだったのだ。この構造になると、僕の感情と理性は手を取り合い、お互いを肯定し合うことが多い。

 

例えば、弁当を買って行ったのに代金を貰っていない記憶、「お前と話したいという顧客がいる」と呼び出されて有給の日に来てみれば、アポの日が違った記憶。

 

それらはいずれも、明確に”軽んじられた!!”という憤りと苛立ちと、はっきりした不信を覚えた。大概のことは許せるのに、こういうのだけはどうも咀嚼しきれない。

 

これはいつから原体験があるかはよくわからないのだが…少なくとも顕著になったのは社会人になってからだ。これは芯がはっきりしたのか、はたまた狭量になったのか。

 

そしてこれは、僕がされるのが大嫌いな類のモノだが、それ以上に”する方がもっと嫌い”というのもある。僕は他人の金も時間も、粗雑に扱う自分が大嫌いだ。

 

自分が無自覚にやっていた行動がそうなっていたらすごく自己嫌悪するし、基本は自分の手が届く限り、人の手は煩わせず、自分が動いたりツールを使ったりして解決する。

 

こんな風に紐解くと、また僕の生態が一段階整理できる。僕は人を頼ることが基本無いのだけれども、それは創意工夫が好きというより、時間を奪うのが嫌いなんだろう。

 

まず自分が動き、色んな外部ツールや工夫を用いて、それでも処理しきれないとき。あるいは相手が本当に手持無沙汰で、作業をあげる方が正解なとき。

 

僕がスッと人を頼れる条件は、それくらいなものだ。そうでないときに色々指示だしして仕事を棚卸して、結果自分が暇になるとか…それは、どうだろうか?

 

勿論、永遠に現場でジタバタしているから僕の校舎長としての器がそこ止まりというのは認めるが、順番が逆ではないか、とも、どうしても思うのだ。

 

責任者たるもの、リーダーたるもの、まずは誰よりも働いて背中を見せて、率先垂範を体現するような状態であるべし。僕はそういうモデルを確かにカッコイイと思う。

 

だが、それによって”誰も頼らない”状態に陥っているのなら、それは勘違い甚だしく死ぬほどダサい、とも思う。それらを隔てるのは、一体何なのだろうか。

 

この辺りの理想と現実に全く線引きができていないことが、何か僕という社会人の致命的なバグのような気がしている。自覚症状の無き癌のようなものとして。

 

だからか、僕はそもそも「仕事の依頼がへたくそ」と言われることも、まだ多い。それは誰にも頼めないことの揶揄ではなく、線引きの基準がズレ過ぎているという意味だ。

 

「それはお前がやるべきものだ」と言われたり、「それをお前がするのはおかしい」と言われたり。正解は何か示されないまま、考えることを強いられ続ける。

 

自分の矜持と言えばカッコいいが、自分の未熟な点を覆い隠そうと必死なだけ。自分の現在地を、僕はそんな風に受け止めることに、いったん決めることにする。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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