精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

自分の作品を第三者に利用されることは、防ごうとすべきか、それとも諦めるべきか。

Xで先日、興味深い投稿を読んだ。「あなたの絵で小説を書きたい」と言われ、断ったら後日、AIを使い無断で学習・出力し、それを挿絵に書いていたのを見つけたそうだ。

 

これに対して元の絵師の方は心を痛めている様子であったし、その心中は察するところがあるが、僕は正直、これは絶対に防げないだろうな、とも思ってしまった。

 

というより、似た構図の話は何十年も前から存在していたことであり、著作権とか意匠権とかで保護されているとはいえ、その8割以上は無法地帯なのではなかろうか。

 

例えば、20年近く前、まだPixivも無かった頃は、デスノートの画風でドラえもんをパロったイラストがたくさんあったが、これは先の話と同じレイヤーではなかろうか?

 

もっともっと古い例では、源氏物語といった古典の傑作になぞらえた擬古物語というのも、たくさん現存していると聞く。(僕の代のセンターにも出た)

ja.wikipedia.org

 

元々はこういうのも、原典の”雰囲気”を汲み取ることが得意な一部の人たちだけで細々と行われていたことから、さして問題になることはなかったのだろう、と。

 

だがまず、インターネットという極端にオープンな場所ができ、発表する舞台も次々登場し、そこへきてAIという強力なツールがコモディティ化してきた、と。

 

こうなったらもう、”投稿した瞬間から何らかの形で好き勝手利用される”のは避けられない状態なのではないか。どうしても、僕はその辺については諦めている立場だ。

 

声優さんたちが共同で署名して、AIの開発に線引きをしようという取り組みもあるが、その勢いは全く衰えないどころか、むしろ増すばかりという印象を持つ。

 

だから、ぶっちゃけ無関係に近い僕も、たまに考える。自分の作品を第三者に利用されることは、防ごうとすべきか、それとも諦めるべきか

 

今日は取り留めも無い、その思索のまとめを書いていく。

 

 

問題はそもそも、第三者に利用されることそのものなのか?

 

自分が生み出したものを他人に利用されることの、合法的かつ最たる例は、僕はレシピ集だと思っている。そしてこれが売れるほど、元の店の売り上げは下がるだろうか?

 

これは【夢と金】に書かれた公式で出せるのだが、「認知の高さ」と、「実際の存在数」の差が大きければ大きいほど、それはプレミアになることを考えれば、ダウトな話だ。

 

実際にレシピ集自体はこの世に何万冊と出回ったところで、シェフはその人一人だし、その人が働く店も、多くの場合はその一店舗だけだろう。

 

それと同じで、例えばモナ・リザをいくらパロディしたところで、元の価値は下がらない。全世界の人は本物を知っているし、そして本物は、この世に1つしかないからだ。

 

そう考えると、割を食うのは”知名度”や”人気”の無い状態で、第三者に自分の作品を蹂躙されたときだろう。例えば勝手にR18の絡みに使われるとか、最悪な話だ。

 

だが世の中には、具体的な作品名は書かないが、動物をモチーフにしたキャラクターだの、女児向けのアニメキャラだのを性的な目で見る人が居る

 

そして原作者がそういったあれこれを、その目的でコンテンツにすることは絶対にありえない。だからどうするかというと、無断で勝手に拝借されるのだ。

 

だが、そういうエロ目的なコンテンツは、不思議なことに、元のコンテンツのファンと、意外と同居することが可能だったりする。所謂別腹というやつだろうか?

 

そもそも論、そういうのは”しゃーない”というのが共通認識だからこそ、コミケはあんなに盛況で、様々なエネルギーが混ざり合って、発散されているのではなかろうか。

 

となればもう、これだけパクることの敷居が下がった今となっては、健全に諦めることこそが、一番大切な心構えなのかもしれない

 

もっとも、それによって勝手に金を稼がれるとか、作品自体のイメージを毀損されるといった不利益を被るのなら、話は別だが…。

 

少なくとも、一定の認知・コアファンを得るまでは、そういう仕方ないやつらに絡まれたり拝借されたりするのは”諦める”方がいい気がする。

 

ただし、その結果認知が広まり、本当に作者とその作品を大切にするコアファンが一定数集まったコミュニティを形成できるようになったら、そこに集中する、と。

 

どんなに人気のアイドルだって、あっちゃこっちゃで脳内妄想に駆り出されているのは想像に難くない。それを気にするより、本当に応援してくれる人を見るしかない

 

絶対に現れる「失礼な人」は、絶対に防げない。どれだけ戸締りしても入ってくる虫のようなものだと受け入れるしかないのではなかろうか

 

それを貫くために必要なものは、「諦観」なのか、あるいは一種の「強さ」なのか。もしかしたら同じことを言っているだけかもしれないが、そこに行きつく気がする。

 

…うん、全然足りない。思索、まだまだ続けることにしようっと。ってことで今日はこの辺にして、また次回に続く。

 

 

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