精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

慢心を戒める脳筋解法がすごく気に入った。

慢心・気の緩み・自分の基準が甘くなる、といったネガティブな響きの言葉がある。これらは結局、同じことを、様々な言葉で表記しているしているに過ぎないと思う。

 

それらを律して厳しさを常に持てる人は、やはりすごく強いと思う。だが、それができないからこそ、千年以上も人類は同じテーマに悩んできたのだろう‥とも思う。

それは僕も同じであり、と同時に、その甘さが自分に憑りつかないよう、今のうちにできる心構えはインストールしておきたいと凄く焦っている。

 

斎藤一人氏の言うところの、「神が持ち上げてくれている間」にしっかりと基盤を造らないと、僕はその内叩きつけられて粉砕されるだけだ。

 

ただ、その”慢心”を防ぎうる構え方について、今日大きなヒントとなる教えに出会えた。それがきっかけで、自分の中での「かくあるべし」が見えたというか。

 

今日はその方法があまりにも脳筋であるということそのものの面白さを基に、以下つらつらと記事にしたいと思う。

 

 

自分が平均より上であると思うからダメなのだ。

 

きっかけになったのは以下の教えだ。僕はこの方を詳しく存じ上げないし、解釈が合っているかも眉唾だが、紹介したく思う。

hikari-k.ed.jp

 

特に、自分でもなぜそう理解したのかはわからないのだが、以下の部分を読んだときに天啓のような教えが下りてきたのを感じた

 

才能のある者は、その才能に頼ることをやめられません。「策士、策に溺れる」といい、賢者もその知識に頼り、ついには失敗することもあるでしょう。

 

悟りの境涯に達したとしても、なかなかその才を捨てることは出来ないものです。


 悟りを得て、その悟りさえも忘れて「愚」に徹する、悟りの匂いすらしない「大愚」に徹する生き方に学びます。

http://hikari-k.ed.jp/zenchoji/houwa/houwa2611.htm

 

僕はこれを読んで、「そもそも自分が平均より上にある」という思い込みが、いわゆる慢心の原因なのではないか、と感じた

 

例えばベンチプレス100㎏を挙上できると、それはすさまじい筋力だと誇ってもいい。だがそれをパワーリフターの世界に持ち込むと、途端に”当たり前”になってしまう。

 

また、ダンクができるとそれだけですごくモテモテになるだろうが、NBA等々では、できない方が少数派という桁外れの世界もある。

 

クラスの中で算数の計算が一番早くても、算数オリンピックに出てくるような猛者に比べればあまりにも取るに足らない数学力になってしまうだろう。

 

これらを基に、僕は先の話を、「常に自分が中の下になるような世界の存在を忘れず、同時にそこに対して少しでも近づけるよう、努力を重ね続けるべし」と解釈する

 

・・ただ、これ自体はどこか、「お前が1番なんて世界はあり得ない」という帰結に至り、いわばインポスターみたいな救いのない話になるリスクもあると言える。

 

しかし僕は、これも考え方次第だと思う。というよりむしろ、これも踏まえてさらに僕が出した結論こそが、脳筋なのではないか、と思っている。

 

ここのミソは、自分より上の世界や水準を意識しながら、それでも努力や精進を一切止めないことにある。つまり自己成長や意識改革は果たし続けるのだ。

 

すると何が起こるかというと、世間が言う「すごい水準」が、自分にとっては「当たり前」を通り越して「意識しなくてもできている状態」になるのだ。

 

プロの棋士が十手先を読むのは常人離れした業だが、彼らからすれば「普通」であり、できること自体を意識することさえ難しいのではないだろうか。

 

プロの料理人が巧みな包丁捌きをしている際、それは「仕事だから当然のこと」に過ぎないのかもしれない。僕らには決して真似できない熟練した業なのに、だ。

 

慢心を消すには、自分の水準を遥かに超えた世界を目指して努力を重ね、「俺はできる」という意識さえ超越したところに、「当たり前」のラインを引けばいい。

 

100㎏のベンチプレスを挙げられる俺スゲー、という慢心を消すには、200㎏挙げる人たちの存在を確認しつつ、普段は140㎏でセットを組む、みたいなことだろう。

 

そう考えれば、なんとシンプルで、それでいて心が躍る話になるのではなかろうか。少なくとも僕はそう解釈し、そして納得もしている。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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