「馴れ」とは何か。僕はこれを絶対に防ぎたいし、こんなのが蔓延した校舎はクソだと思うので、それを察知する方法も学んでおきたい。だからここ最近ずっと考えている。
色々手探りで考えてきたが、ここで一旦、しっかり腰を据えようと思い直した。全ての始まりはやはり語源を知ることだ。そこでまず、辞書を引いてみることにした。

4 (馴れる)
㋐その人に対して、違和感がなくなる。その人に親しみの気持ちをもつようになる。「子供が家庭教師に—・れる」「新しい上司に—・れる」
㋑動物が、人間に対して、警戒心などを抱かなくなる。「人に—・れない馬」
特にイの意味が引っかかる。違和感が無くなり、親しみの気持ちを持つようになるのはまだいいが、その結果警戒心を抱かなくなるというのは、負の側面の話ではないか?
語源を調べていくと早々に頭打ちになったので、今度は「馴れるをネガティブに解釈するとどうなるか」を調べてみた。すると、得心するような言葉が並ぶことになった。
単純に慣れる(中立)、悪い環境に慣れる、マンネリ化して危機感がない、慣れすぎて感覚がマヒ(諦め)
確かにどれもこれも、”馴れ”を説明する言葉としてすごくしっくりくる。だが同時に、すごくスタンダードな、万人にとっての70点という印象も拭えない。
もっと自分にとって腹落ちする、別の表現が無いものか。そう考えていたところ、まさに”自分の身に起きた出来事”がきっかけで、その言語化についに至った。
とはいえ現時点ではまだ”手応え”に過ぎないので、この記事を通じてしっかりと、短くも強いフレーズになるまで、練り上げていきたいと思う。
僕が「馴れ」”られた”と感じた一幕。

少し個人的なエピソードになるのだが、先日他校舎に出向する用事があった。校舎に入り、準備を済ませ、不慣れでまだ面識も乏しい生徒を出迎え、授業を行う。
この日は季節講習だったのもあってか、生徒が2人不在だった。遅刻かすっぽかしかと思い、片方に連絡をしたところ、”別の講師に欠席の旨を伝えていた”との談だった。
となると、もう片方もその可能性がある。そう思い、担当に連絡をして待ってみたのだが、やはり現れない。だから生徒に演習を指示し、その間に爆速で連絡を入れた。
するとこちらは「試合後に疲労困憊して動けない」との事情があり、それはそれで欠席として受理するに至った。だが、僕の引っ掛かりは表面的なところには無かった。
たった一言共有さえしてくれれば、自分がこうやって心理的に慌てることも無ければ、ご家庭に無駄な手間をかけることも無かったのでは?という訝りだ。
そして思った。これはいくら何でも、僕に対して失礼ではないか、と。自分が軽んじられていることがどうにも透けて見えて、気分は全く良くなかった。
ただ、この当事者として受けた経験こそ、僕が知りたい【馴れ】の正体と、それを防ぎうる大きなヒントになるとも思った。
この出来事を丸っと肯定して、笑って受け流すことも選べるが、それはそれで今回迷惑をかけた、僕を含めた全員に失礼な話だ。
そしてこれを起点に考えを進めたことが、この記事の結論に辿り着く大きなヒントになるのだった。
「馴れ」はなぜ生まれ、そしてなぜ不快な思いを生むのか?

【馴れについて】調べた結果、ある面白いことが分かった。それは、それが生まれるまでのプロセスは、人間の性質というより、動物の本能に根差しているというものだ。
生物である限り、まずは未知の存在に対しては警戒から入る。そこには緊張が生まれ、相手の一挙手一投足を常に伺うような思考が強まる。
ただ、時間が経ち、接触回数が増え、相手に敵意が無いことが納得できると、その警戒は解けていく。そして緊張が失われ、その結果生まれるのが、「馴れた」状態である。
そうであるなら、これを意識の力で食い止めることは不可能と言っていいだろう。なぜなら、この流れは意識ではなく、本能に根差しているからだ。
そして【馴れ】が進むと生まれてくるのが、想像に難くないが、相手の我慢や善意へのただ乗りだ。これくらいなら許してくれる、これくらいなら怒らない、という風に。
自分が持ち出すものをどんどん減らし、相手の器におもねる様な不義を重ねる。その閾値が一定量を超えたり、相手の逆鱗に触れたりすると、爆発が起こる。
「いい加減にしろ!」と逆切れされたり、別の方面からこっぴどく叱られたり、それによって弛緩は一気に崩れ去ることとなる。
そしてまた相手に脅威を覚え、警戒が始まる。しばらくはそれによって緊張が生まれ、ナメたことをしなくなるが、いずれそのモードも本能ゆえに解除される。
エンドレスだ。相手の我慢や善意の持ち出しを”当然のように”思うことが生物の本能に組み込まれたものに等しいとするなら、どうすればそれを防げるのか?
頭打ちになった気がしたが、そのヒントは既にこの世に、しかも古来から存在しているものにあった。そしてそれに思い当たったとき、本当に興奮したのをまだ覚えている。
次項ではそれに触れていこう。
「親しき仲にも礼儀あり」

それはいわゆる【礼儀作法】だ。古来から受け継がれたプロトコルに則り、相手に敬意をもって接する。そこには、”健全な緊張が、常に走ることとなる”。
礼儀作法が重苦しいなら、マナーと言い換えても良い。マナーとは、思うに先の「馴れ」による、相手への無意識下のただ乗りを戒めるためのヒントではないか。
実際、マナー”違反”になるものは全て、その人の身勝手な行為(いわば10段階でいう2のめんどくささを嫌って他の誰かに押し付けること)を指摘するものだ。
その行為によって、その当人が想像もできないほどの人数と環境に負の影響を与える。そいつの2の手間を無くすために、社会全体に10の負荷を強いているようなものだ。
例えばゴミのポイ捨てをすると、掃除する人の手間が増え、それを見た人を不快にさせ、そして地域・自然環境には、よからぬ影響を少なからず与える。
逆に言えば、そいつがちゃんとゴミをゴミ箱に捨てるだけでそれらが発生しないのだから、ポイ捨てすることに対して、合理的な理由は全く存在しない。
だからこそ、それらを【マナー違反】として咎めているのだ、と思う。そして”それを防ぐための所作・意識”が凝縮されたものが、つまり【礼儀作法】なのではないか。
となれば僕が学び、実践すべきことは意外と、礼儀作法のイロハであったり、ビジネスにおける常識的なマナーであると言えそうだ。
普段から自分を俯瞰で観察し、これらの礼儀作法に則って言動が出来ているかをチェックする。そこには常に緊張が生まれる。つまり馴れあいの生じる余白が無くなる。
親しき仲にも礼儀あり、という言葉の意味が、この思索を経て完全に更新された。これは友達にも敬意を払えなんて、表面的な意味ではなかった。
常に礼儀作法を意識することで慢心を防ぐべし。先人からの、ある意味厳しくも、どこか「俺みたいになるなよ」という愛ある声が聞こえた気がした。
このテーマ、まだまだ掘り下げるべき、ワクワクするような教えを隠しているに違いない。だけど、今日はこの辺で結ぶことにしよう。