最近珍しく、「自分の心身には強いストレスが掛かっている」と感じている。肉体の疲労はあったが、メンタルもズシンと、どこか重いものを抱えているようだ。
その理由は簡単だ。僕が苦手とする言動・思考・状況に矢継ぎ早に触れ続けているからである。要は”理不尽なこと”をここ最近、シャワーのように浴び続けている。

テナントに工事が入ると聞かされていた期限から勝手に1週間以上前倒しされたり、それによってネット環境がダウンして、修理業者がまだ来てくれなかったり。
春季講習という多忙な時期もあって、周りからの依頼もすごく雑で、とにかく急で、それでいて依頼する側の方が機嫌が悪いのですごくタチが悪いな、と。
それに加えて春季の募集ハイシーズンなのもあり、こっちでカリカリさせられた数分後にはあっちでニコニコ面談を組まざるを得ないなど、感情さえもうグダグダだ。
人生これまでロクに考えてこなかったストレスマネジメントの勉強に、今こうして強制的に向き合わざるを得ない今、思うことは本当に色々とあるわけで。
・・・ただ、その解決策は僕にとってものすごく呆気ないものだった。既に自分が経験則で持っている記憶を、ただ掘り返して、再び装着すればいいだけだったからだ。
今日は「結果、僕の財産になっていた」とある記憶・経験について、以下思いつくまままとめていく次第である。
理不尽な世界には、実は長いこと身を置いていたのです。

きっかけは、ひろゆき氏のインタビュー記事を読んだことだ。以下の内容を読むと、「体育会は有利」という言葉が出てきて、それで「あっ」と思い出した感じだ。
ひろゆき氏:やってるかやってないかは差が分かれると思います。部活って、先輩の言うことは絶対じゃないですか。嫌々で掃除とか後片付けをしたり、意味なさそうな基礎練習ばかりやらされたり、パシリになったり。
でも、「これを今やっておけば、後から有利になるな」とか「この瞬間だけバレなきゃ大丈夫だ」みたいな戦略がだんだんわかってくるんですよ。すると、少しの理不尽だって耐えられるようになる。
――大人になってからはどうなるんですかね?
ひろゆき氏:部活での体育会系を経てると、社会人になってからは、「給料もらってるんだから、ぜんぜんやります!」と考えると思うんですよ。
逆に、その経験がない人は、「なんで自分がこんなことやらないといけないんだ!」という意識になりますよね。
上司や先輩から何か言われたときに、瞬時にどう考えるかの違いが出てきます。
―というのも、僕は元々、ゴリゴリの体育会の出身なのだ。特に中学の部活はその傾向が強く、先の話が”実は異常寄り”であることは、そこを卒団してから知ったくらいだ。
先輩が休憩している間にグラウンドを片付けたり球を拾ったり、そんなことは”当たり前”だと思っていた。監督の言うこと”が”正しいというのも、普通にそう思っていた。
なぜなら、それは違うと思っても何も世界は変わらなかったし、それを変えようとすると何倍もめんどくさい抵抗に遭うことなど自明だったためだ。
例えばグラウンドに球が転がっていて、先輩がキレたときは、それは誰が転がしたかなんてどうでもよくて、一目散に駆けて拾いに行き、頭を下げるのが正解なのだ。
これが”普通の価値観だった”場所に何年も身を置いていて、理不尽なんてものは骨の髄まで知り尽くしていたはずの僕が、理不尽に対して物を思うことになるとは!!
それに気づいた途端、自分にちょっとがっかりした。中学生の頃の僕の方が、理不尽耐性は圧倒的に強かったではないか?
そういえば、自分がデフォルトでそういうものを持っていることは、今の職場に転職してからも、ちょこちょこエピソードがある。
誤解で上司にブチ切れられた僕を気遣って、先輩方が飲み会をセッティングしてくれたことがあったのだが、当の僕はそれが”どれのことか”解らなかったくらいなのである。
怒られたらどうしようとか、誤解によって面倒を被ったらどうしようとか、そんなものの答えは過去の僕がとっくに出していたことだった。
自分が動いて、頭を下げれば済む話ならそうすればいい。文句など要らない。一分の理もかなぐり捨てて、ひたすらに唯々諾々と従うのが一番楽なのである。
今の僕は、ぬるま湯に普段は身を置いていて、その温度が少し上がったことに不満を言っているようなものだ。かつては熱湯に毎日入っていたというのに。
ストレスマネジメントの術は僕の場合、身に着けるべきものではなく、思い出すべきものであった。その発見だけでも、ずいぶん救われる心持である。
では今日はこの辺で。