時代遅れと言われながらも称賛を得る。そんな相反する属性があると言われたら、「あれのことか」と思われるだろうか。僕はその具体はパッと浮かぶ。
それは「体育会出身かどうか」だ。根性論そのものと言える価値観と規範で青春を過ごす。これらはまさに、今の世では”ナンセンス”とされるものなのだが。

一方、それらを経験した方々は、とにかく就活市場で価値が高くなる。理不尽を一通り経験してきたからこそ、耐性と一緒に、その御し方も心得ているだろうからだ。
理不尽に対して誰かに泣きついたり、ただひたすら落ち込んだり、不満を言いながら地団太を踏むだけのヤツより、彼ら彼女らの方が確かに建設的な思考をしている。
「わかりました!」という返事からの、「すいません!」を言うか言わないかの差異はあるが、最終的に「やります!」という断言に行きつくプロセスには感動さえ覚える。
…なんて言っている僕だが、それは過去の僕が一時期完全に染まっていた規範でもある。昨日の記事でも書いたが、僕は元々体育会出身なのだ。
そしてやはり、”あの頃”のスタンスを思い出せば出すほど、正直少なくとも「現状」においては、あの御し方が一番収まりがいいと思えてならない。
ということで前回の記事がただの気づきの言語化であるなら、今回はそれをより具体的な行動になるまで深堀する、そんな記事を書いていきたい。
「細かい事情などどうでもいい」ので、とりあえず状況が改善されるルートをひたすら選び続ける。

体育会系の規範を突き詰めた組織・世界となると、僕は軍隊や極道のそれが頭に浮かぶ。いずれも駆け出しの仕事は、いわば先輩や上官の小間使いから始まるようだ。
そこで言われていた身の御し方がすごく興味深い。三流は、もちろん「なんで俺がこんなことを‥」とブツクサ言いながら、ひたすらにサボるか責任転嫁するからしい。
二流は、心の中では不満を抱きながら、言われたら即返事➡行動、というのを徹底するタイプ、だという。個人的には、これでも二流なのかと、そっちの方に驚いた。
一流は、言われる前に行動・言動を先読みして対応を済ませておくそうだ。不足があれば買っておく。洗車を命じられそうならやっておく。これこそが一流なのだと。
同じマインドを言い換えたものが、それこそ「言われる前に動け」とか、「仕事は見つけてでもやれ」という、体育会特有の思考・価値観ではないかと思っている。
ここまで考えたとき、何の本に書かれていたかは忘れたのだが、ある理不尽(というより厳しいレッスン)に対して、偉人が取った行動のエピソードを思い出す。
彼らは日々直属の上司から、なんらかの文章の提出を命じられ、朱で真っ赤に校閲されたものを返されて、それを書き直すことを日常業務にしていたそうだ。
書くこともつまらないが、それが真っ赤にされて返却されるのだから面白くない。だからこそそれを受け取ると適当に直し、引き出しにしまう人ばかりだったそうだ。
その中で違う御し方をしたのが彼だ。彼は返却されるたび、その上司がどういう表現を好ましく思うのかを分析し、その気付きを残しておき、次は忠実に反映させたという。
その結果、2ヶ月くらい経つ頃には、彼は「お前の文章にはもう言うことが無い」と上司から太鼓判を押され、ひたすら朱で直されるフェーズを真っ先に卒業したのだ。
・・・これを美談と思うだろうか?それとも、前時代的だ!労働者の権利・心中を無視した愚策だ!と思うだろうか。僕は、残念ながら、前者派だ。
これは程度によるのだが、後者の立場の人物は、とにかく動かない。状況は改善”するもの”ではなく、”声をあげれば、誰かが改善してくれるもの”という意識が強いからだ。
いや、強いという表現は不適かもしれない。自分が他力本願であることに気付いていない可能性の方が高いからだ。
それに関して、僕が特に「その通りだ!!!」と感動したセリフが、カイジにある。せっかくなので紹介したい。

お母さんにするのと同じ期待を世間に、”当然のものとして”するタイプがいるとしたら、その対極にあり、決してなじまないのが、いわゆる体育会の価値観である。
そして僕はどうにも、そっちの方が収まりがいいし、そっちのタイプの人の方が、接していてキッパリしていてとにかく色々ラクなように思える。
そのために僕も、世間に対して甘えないという覚悟を決め、そう行動し、そしてそうすることが自然になったときはじめて、体育会に戻れたと言えるのだろう。
うーん、げに素晴らしき世界かな。甘えん坊はもうおしまいにして、ぬるま湯でないことを嘆く前に、熱湯にいないことを不安がるくらいでちょうどよかろう。
では今日はこの辺で。