前の記事で、「ブチ抜いて一区切りをつける」と啖呵を切った。今は冷静になったから”こそ”、そのために何が要るのかを、感情抜きに考え始めている。
それは決して、自分がプレイヤーとして今以上にコマを持ち、授業に全振りすることではない。僕はむしろ、裏も表を走り回るプロデューサーたるべきだと考えている。

「良いものを作れば放っておいても来るんですww」という物言いはすさまじく恥ずかしいし、自分が閉じこもっていることは、その詭弁を肯定することに他ならない。
僕がいなくても回る組織を作る。いたずらに僕の手間暇が奪われない仕組みを構築し、それによってそこで働く人をむしろ充実させるように在りたい。これが本音だ。
そのためには、自律的に動くことを阻むバグの発見が必要だ。だがこれはなかなかに厄介で、自分が常にいる場所ではそれを発見するのは至難の業である。
傍から見れば汚い部屋も、住人にとっては完全に整い、効率化された配置になっていることがある。それと同じだ。
それもあって僕は敢えて、客観視のトレーニングの一環として、時折あまり勤務することが無い校舎に顔を出すようにしている。
それは何が狙いで、そこで何を学び、何を持ち帰っているか。この記事に、以下書いてみたいと思う。
不慣れな場所でこそ、客観視は磨かれる。

持ち帰っているものを端的に言えば、「どこに何があるのか不明瞭だと感じた点」や、「導線としての渋滞を覚える点」などの、つまり僕が不都合を感じた部分である。
この資料を探すときにヒントが感じられない。この置き方は暗黙知に頼っている。わざわざ無駄な迂回を経て、講師が資料を取りに来ている、等など。
あるいは受け取った資料をどこにどうしておけばいいかのルールが無いとか、参考書を見たいとなったときに大体どこを見ればいいかの仮説が立たない、とか。
自分がそこで働くとなったときにボトルネックとなりそうな点に意識を向けて、それが自分の校舎で発生していないかを観察している感じだ。
つまり僕は、仮説を求めに他校舎へ行っている、と言い換えてもいい。それを何度も分析して、移植して、思った通りに行くか行かないかをまた検証する。
そうやって洗練を繰り返していけば、段々と無駄が減り、無理が減り、そして属人化が消えていくのではないか、と思っている。僕がいなくても自走する”場所”を目指す。
限界まで、僕は人の意思の力に頼らず、仕組みで何とかしたいと思っている。そこではどうにもならない点であっても、意志ではなくルールを用いて解決したい。
細かい話だが、資料の残数が一定水準未満になった際は誰それにラインを送る、というくらいに留めたい。それすら抜けるようでは、なかなか痺れるのだが。
僕はこれ以上職場を”自分にとって居心地がいい場所”にしないよう気をつけたい。僕にとって100点のレイアウトでも、周囲には60点なら、意味は無いのだ。
それよりも、僕も含めて万人に80点くらいのレイアウトにしたい。どこに行って何をすればいいかが大体わかる場所。それこそ僕が目指す、アバウトだが確固たるゴールだ。
そこまではキッチリやり切る。やり切った果てに何を感じるかは知らない。それを受けてどういう判断と行動を採るかは、未来の自分に丸投げをしたい。
そのために今できることは貪欲にやり切る所存だ。たとえスーパーに行っても、僕は自分が何をすればいいかが判るかどうかを、観察している。
では今日はこの辺で。