休日を当たり前のものと思わなくなって久しい。言わない方が良いのだろうが、確定36連勤(半休を時折挟むけど)の途中である。
それを経験中なのもあり、休日がどんなものか、そもそも己の内から完全に消滅したと思っていた。社会人になると、暇だった大学生の日々を忘れるようなものだ。

僕が休日を欲しないのは、それもまた理由の一つだと捉えている。味も知らないし想像もつかない食べ物を「食べたい!」とは、あまり思わないように。
そんな僕が今日、割と強烈に「あ、俺休めてる」という、休みの日らしい感覚をはっきりと実感した。あまりにも自然だったため、我ながらすごく、驚いた。
ただその瞬間があまりにもクセ強だったので、この記事を通じてそれを丁寧に分析したい。
思い出すあの時?
それは「洗濯用洗剤と、排水管の洗剤を買い物かごに入れたとき」だ。この瞬間、どこかフレッシュな気持ちが、確かに一瞬やってきたのを感じたのだ。
これは一体なんだろうか?とても不思議だったので、帰りの道中も色々考えたが、類似した記憶はいくつかあるのに気が付いた。
例えば、普段なら職場にいるはずの時間に、家で自炊をしてそれを食べているとき。100均で自宅に置く収納アイテムを選んでいるとき。
新鮮市場で買ってきたチキンを解凍し、一つずつポリ袋に詰めているとき…僕にとってのオフの具体例を思い起こすと、こんなのばかりが頭に浮かぶ。
もちろん釣りやソロキャンプをしていても”オフ”を感じることはできるのだが、明確に「休めた」という感覚は、それらではあまり抱かない。(「充実してた」と思う)
ただ、あの買い物をしているときは、完全にクラッチが切れたことを確かに感じた。日常の中にさりげなく、僕にとってのオフは息づいていたということだろうか?
あの時の感覚を言葉にするなら、”新生活を始める前の買い物”をしているときの、ワクワク感とでも形容するとしっくりくる。
ではなぜ、僕はオフの確かな実感を、このワクワク感から得られているのだろう。気になったので無茶ぶり承知でChatGPTに尋ねてみた。
ではなぜ、僕はオフの確かな実感を、このワクワク感から得られているのだろうか。
一つ腑に落ちたのは、あの瞬間にやっていたことが、「成果を求められる行動」ではなかったという点だ。
普段の仕事は、どうしても他者や数値と強く結びついている。授業も、問い合わせ対応も、判断も段取りも、全ては誰かの期待や結果に接続されている。
言ってしまえば、常に何かしらに応えるために動いている状態だ。だが、洗剤や排水管のクリーナーを買う行為は違う。
誰に評価されるわけでもなく、締切もなく、数字にもならない。ただ、自分の生活を少しだけ整えるための行動に過ぎない。
それなのに、いや、だからこそだろうか。あの瞬間、僕は「役に立つために動いている人間」ではなく、「ただ生活している人間」に戻っていたように思う。
おそらく僕にとってのオフとは、何もしない時間でも、遊びに行くことでもない。釣りやソロキャンプは確かに楽しいし充実もするが、どこかまだ“非日常感”が強い。
それに対して、日用品の買い物や自炊、細々とした生活の作業は、生活を前に進めているのに、何とも戦っていない。
この「生活しているだけの状態」に入れたとき、初めてクラッチが切れるのだと思う。
新生活前の買い物に近い、という感覚もそこに繋がる。あの時間は、まだ何者かとしての役割が始まっていない、ただ自分の生活を整えているだけの時間だ。
そう考えると、僕があの瞬間に感じたワクワク感の正体は、特別なものではない。
自分の時間が、誰かのためでも結果のためでもなく、ただ自分の生活のためだけに使われている。その主導権が、自分に戻ってきているという実感だ。
だからこそ、あの何気ない買い物の瞬間に、はっきりと「休めた」と感じたのだろう。
※僕の文体に整えてもらった
こうやって客観的に指摘してもらえると、至極その通りだ。あの買い物をしている時間は、僕が、僕の手が届く世界において、僕のためだけに、何かを選んでいた。
つまり、一切の他人から一旦切断された状態が、あれだったのだ。Wi-fiが一瞬不調になり、結果として通知が全て届かない静寂の時間が来たのと似ている。
そう思えば、僕のオフはこんなにも手軽に作れるという特性、素直に歓迎した方が良さそうに感じられる。休みたければホームセンターに行けばいいのだ。
とはいえ、その都度高額な買い物をしていてはいけない。要るものを、最低限。それだけは気を付けつつ、もっと日常にオフを混ぜていこうと、そう思った。
では今日はこの辺で。