精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

体調不良のときに、仕事の”無駄”が見える。

ちょいちょい書いている話だが、僕は片頭痛持ちだ。狙いすましたように毎月最終週に発作が起きるような感覚がある。

 

実際今も左目の奥に違和感があり、光を見ると目を開けづらくなるなど、典型的な症状が出ている。それをカフェインと頭痛薬で緩和している状態だ。

 

つまり今日はマトモに仕事ができるわけがない日である。だから省エネモードに徹し、クリエイティブな仕事はなるべくせず、定時キッカリに帰ることを狙う。

 

―とはいえ、これは最近そう思えるようになっただけの話なのだが、こういう体調が悪い日は、実は”あるもの”をしっかり見れるようになる好機でもあるのだ。

 

その”あるもの”とは、いわゆる無駄なこと・ものである。今日はそれについて、短めのエッセイをしたためてみたく思う。

 

 

元気なときはゴリ押せても…。

 

体調に問題がないときは、多少の細々したことや、非効率的なことくらいなら、体力と気力で全く問題なく押し通せる。それは別に異論がないことだと思う。

 

よく漫画などで見かける、「あー、もー、忙しいなー!」と言いながら、千手観音みたいに腕を生やし膨大なタスクを処理する”優秀なビジネスマン”の構図と全く同じだ。

 

だがそれは元気あってのものであり、例えば今の僕みたいに頭痛に苛まれていたり、シンプルに風邪を引いたりしていると、そういった脳筋解法が使えなくなる。

 

つまり、”無駄で非効率的なこと”をやり切るエネルギーが枯渇している状態になってみると、そういった無駄なことができなくなることから、その辺に自覚的になれるのだ。

 

逆に言えば、しんどいときに「これ・・・やる意味あるんかな?」という疑問が湧いたルーティンやタスクがあった際は、その感覚は大体間違っていないと見ていい。

 

実際僕もいくつかのやるべきことを別日に放り投げたり、そもそもタスクリストから消してみたりしているのだが、それによって何か困ったという感覚は全く覚えない。

 

勿論これが遅効性の毒みたいに効いてくる未来があると言われればそれまでだが、今のところそれは多分大丈夫なのではないかなと、そんな予感を覚えている。

 

濁ったビーカーを振る手を止めてしばらく待つ。

 

これを考えるときに頭に浮かぶ好きなメタファーが、【熟達論】にある。それは「休養」のメリットについて語っていた部分だったと記憶している。

 

ケガなどで長期離脱をした選手が、復帰してみるとその前よりいいパフォーマンスをすることが結構ある、という話だった。

 

それは休んでいる間に関節や筋肉が回復するのみならず、身体の中でヘンに癖付いていた意識や動作が消化され、パフォーマンスが整うことが理由ではないかとの談だった。

 

目の前のことにひたすら必死であることは、それ自体確かに一つの努力として受け止められるが、別の見方をすれば泥水の入ったビーカーを延々と振ることにも近いという。

 

その手を止めてしばらく待つと、泥はやがて沈殿し、ビーカーの底に溜まる。そして泥水だったものは透明な水に戻り、本質をしっかり見通せるようになる、と。

 

本来はその役目を担うのが休日といったオフの時間だと思うのだが、僕みたく小忙しい状態が常のことになると、泥水を振る手がなかなか止められない。

 

そういう状態においては、体調不良もまた見方を変えれば、自分の現状をより透明に戻せる、いわばムダ・ムリ・ムラがはっきり見える状態を疑似再現してくれるものだ。

 

そう捉えると、少しだけこの状態を歓迎できなくもない気がしてきた。まぁ、健康あっての物種なので、とっとと治ってくれと願う気持ちは止まないのだが。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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