精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕は楽しいから仕事をしているわけではないらしい。まぁ、知ってたけど。

よく、仕事のモチベーションについて、「仕事は楽しいか?」みたいな話がある。有名な本(もはや古典の類)にも、そういうテーマのものがあった気がする。

 

一旦それはそれとして、ということなのだが、このGWは体調が悪くなるまで、全エネルギーを注ぎ、遊び倒した。そしてその結果は、童心に返ったように、”楽しかった”。

 

これはなかなか安心できる体験だった。「ああ、自分はちゃんと楽しいと感じることができるんだな」と。ずっと封じていた自分に久しぶりに会えた気分だ。

 

もちろん、先述の通り体調を崩した分のマイナスはある。ただそれを差し引いても、人と会って、好きなことをして、気楽に過ごす時間は、やっぱり心の底から楽しかった

 

そして、その感覚を味わったからこそ、逆に気づいてしまった。この感覚は、今の仕事をしている時間の中には、存在していない

 

もちろん、これは今さらな話でもあるのだが、今日はそんなことを基に、以下記事をつらつら書いていく。

 

 

楽しさより意地。続けたいというより辞めたくない。

 

正直、僕は別に「楽しい」という理由で仕事をやっているわけではない。よくある理想論のような、仕事そのものが楽しくて延々自走しているわけではないのである。

 

では、なぜ辞めないのか。そこを改めて考えてみると、かなりシンプルで、「途中で投げたくないから」に尽きる気がしている。

 

前もどこかで書いた気がするが、まだクリアできていないゲームを、途中で放り投げるのが嫌だ。だから続けている。本当に、それだけなのだと思う。

 

つまり、「続けたい理由」があるというより、「途中で辞めたくない理由」がある。だから、仕事自体が精神的報酬になっている感覚は、正直そこまで強くない

 

ひたすら”楽しさ”で埋め尽くしたこのゴールデンウィークで実感したのは、「やっぱりそうだったか」というただの再確認だった

 

ただ、別に僕は「仕事の中に楽しさが欲しい」とも、実はそこまで思っていない。むしろ、今の自分にとっては、それはかなり危険な状態だと感じる。

 

なぜなら、僕の場合、「楽しい」と感じる瞬間というのは、責任や仕事から切り離されている状況と、かなり強く結びついているからだ。

 

だから、仕事の最中に無邪気な楽しさを感じている状態というのは、ある意味で「目の前の責任から意識が逸れている状態とイコールである」とも言える。

 

もちろん、これは人によるだろうし、どちらかと言えば僕が特異側だと思う。だが少なくとも僕の場合は、「仕事が楽しい」は、必ずしも健全なサインではないと感じる

 

だからこそ、「仕事に楽しさを求めるべきだ」という価値観には、今のところそこまで強く共感していない。僕は、公私をある程度きっちり分けたいタイプなのだと思う。

 

仕事には充実感や責任感があり、プライベートにはちゃんとした緩みと楽しさがある。それらがクッキリと分けられた状態の方が、結果として自然なのではないか。

 

そんなことを、今回かなり強く感じた。とはいえ、だからといって今の自分が無条件で健全であるという結論が引けるかと言われれば、それもまた違うと思っている。

 

実際、仕事から5日ほど完全に切り離された結果、今はかなり「戻りたくなさ」がある。だからといって、「もっと遊びたい!」という感じとも、また少し違う。

 

むしろ、何か張り詰めていたものが一気に緩み、そこから再び仕事モードへ戻すこと自体が、すごく重く面倒に感じている

 

感覚としては、何日も部活を休んだ後の、最初の練習日に近い。始まる前から、すでにダルいのである。

 

・・・改めて、この連休で最も大きかった学びは何かというと、、「楽しいこと」は仕事の外側にあるからこそ機能する、ということの再発見・追認かもしれない。

 

もし仕事の中にまで「楽しい」を無理やり持ち込もうとすると、公私の境界が完全に曖昧になり、結果としてメリハリのない、単調な時間になってしまう気もする

 

だから今後は、「仕事をどう楽しくするか」ではなく、「仕事と切り離された時間をどうきちんと確保するか」を考えた方が、自分には合っているのかもしれない。

 

そんなことを、ぼんやりと思ったゴールデンウィークであった。では今日はこの辺で。

 

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