「小説家の休暇」を読んでいたとき、極めて印象的な言葉に出会った。それがタイトルにある、「ただそこにいるだけで、同時に充実している状態」みたいな表現だ。
確か、舞台芸術について論じている箇所で出てきた言葉だったと記憶しているのだが、その一節を読んだ瞬間、妙にハッとさせられ、ページを読む手が止まったのである。
僕の解釈が正しいかはわからないが、そのエッセイではまず、「舞台に立ち、役柄を演じる人間は、少しずつその役に毒されていく」という話が語られていた。
例えば、今自分が感じている怒りは、本当に自分自身の感情なのか。それとも、演じている役柄として生じている感情なのか。その境界線が徐々に曖昧になっていく。
役柄に没頭すればするほど、感情も、判断も、物事の捉え方も、他人から見た際にきちんと役柄としてマッチしているかといった“視線”に侵食されていく。
つまり、「本来の自分」と、「演技のための人格」の境目が、少しずつ溶けて、最後には区別がつかなくなっていくことを危惧していたのだ。
そして三島由紀夫は、それを「健康に良いと思っていたラジウムに、じわじわと身体を蝕まれていく感覚」に喩えていた。過激だが、同時になるほどな、と強く思った。
ということで以後、それに関する話をエッセイみたく書いてみたいと思う。
「俺は誰だ?」
これは別に、役者や演劇人に限った話ではなくなったと思う。現代人は、多かれ少なかれ、皆“演じている”。SNSもそうだし、仕事もそうだし、人間関係もそうだ。
「こう見られたい」「こう振る舞うべきだ」というものが、常に人格へ入り込んでくる。そしてそれは、毒だと気付かぬままに心身を蝕み、破壊していくリスクもある。
では、その毒に対して、僕らはどう構えればいいのか。ただ、ここで面白いのが、氏の立場としては、「完全に毒をゼロにする必要はない」というものだった。
むしろ芸術に携わる人間が、そういった“侵食”を一切受けていない状態というのは、それはそれで味気ない。ある程度、世界や他人に影響されるからこそ、表現は深くなる。
これは確かにその通りだと思う。しかし同時に、「他人の視線から完全に自由になった状態」を、時々でも見つめなければならない、とも説かれていた。
これは正直、手垢だらけの助言だ。何一つ真新しさなんてない。だがその後に添えられていた、「そしてその状態に満足すること」というこの指摘には、感銘を覚えた。
疲れやしんどさを覚える。だから一人になる。このこと自体は意識的に普段からやっていることだ。だが実際には、一人でいても休まる時と、全然休まらない時がある。
逆に、人が周囲にいても、「あ、今すごく落ち着いてるな」と感じる瞬間もある。では、その違いは何なのか、それがずっと、自分の中でモヤモヤしていたのだ。
しかし、この「ただそこにいるだけで充実している状態」という言葉を見て、少し謎が解けた気がした。
つまり、人は「一人でいること」そのものでは回復しないのだ。周囲から切り離された状態に身を置きつつも、“そこで満たされている感覚”が必要なのだと思う。
一人でいても、何も満たされていなければ、心の内から絶えず生じるノイズに邪魔され、意識は浸食され、結局は延々と、抱えている未完の悩みと向き合うだけになる。
それでは心は休まらない。だからこそ、「一人でありつつ、心穏やかで、満ち足りた状態」を持つことが大事なのではないか。まだまだ曖昧だが、霧が少し晴れた。
本書では、とある芸術家は家で猫を十数匹飼っていて、一人の時間においては、ひたすらその猫たちと向き合う、という人がいた。
それも受けて、最近家で実験的に、ずっとジャズを流すようにしている。(深い理由は無く、シンプルに聞いていると落ち着くから、というだけだ)
これが、意外と良い。つまり、「心穏やかな状態」というのは、完全な無音・無刺激ではないということなのだろう。
むしろ、自分にとって心地よい刺激が、“ネガティブな思考のノイズ”を打ち消してくれる状態。言ってしまえば、ノイズキャンセリングイヤホンみたいなものだ。
雑音をゼロにするのではなく、“心地よい刺激”で包み込むことで、不快なノイズを相対的に小さくする。
そういう状態を、自分の生活の中に持っておくこと。それが、「ただそこにいるだけで充実している状態」の正体なのかもしれない。
本当はまだまだ考えたいことがあるのだが、今日は時間も限られているので、この辺で終わりにしておこうと思う。