21歳頃から読書をするようになった僕だが、特にその頃、やたらと目にすることがあった記述がある。それは「自分がワクワクすることをする」という矜持だ。
堀江貴文氏も鈴木おさむ氏も、なんならTEDトークのプレゼンを体系的に解説した本も、つまり「自分の心が躍る時間・対象を大事にしろ」と説いていたほどだ。
こんなにもたくさんの人が、それを一義に挙げているということは、この「ワクワク」という状態はすごく純粋で、それでいて高尚なものなんだと、当時の僕は納得した。
だから自然と、「自分はワクワクしているか?」を問うことが増えた。もしそうであればそれは正しく、そうでないものは何か間違えている。そう思っていた。
だが、そこから14年程が経過した今、僕はもう、"ワクワクする"感覚を追い求めるのは止めようと決めている。これはゆっくりとそう決断するに至った、という感じだが。
今日はそれについて、自分の考えを整理していきたいと思う。
ワクワクしているときより、楽しい時間があるから。
そもそも、”ワクワクする”という言葉は、どういう意味なのか。辞書で引くと、以下のような意味が載っている。
将来起こる良き出来事に対して期待感を持つこと、期待に胸を膨らませること
つまり、具体例で考えるなら、「明日は遠足だ」と心躍らせている子供の心境といえそうだ。となれば一つ、疑問が湧く。
”では、その遠足を楽しんでいるとき自体は、どんな感情なのだろうか?”-ワクワクとは未来への期待に抱くものならば、その未来が現在になったら、心はどうなるのか。
そう思って調べ直していると、ワクワクするという言葉には、きちんと”現在の状態”を描写した定義もあることがわかった。
期待や喜びなどで、心が落ち着かず、胸が騒ぐ様子
となれば、楽しい、または興奮する出来事に触れた結果、心が躍り、そわそわしている状態でありながら、そこに強い喜びや快の感情が生じている、という感じだろうか。
ドキドキする、ときめく、そういった類語もあることから、その認識で間違いないと思う。となれば、やはりどうしても、思うことがある。
僕はそういう、いわばダイナミックな快の感情は嫌いではないのだが、それが持続したり頻発したりすると、シンプルに身体が持たないのだ。
つまり、「これをすればワクワクする」と言われても、「ワクワクするのも結構しんどいからええわ」という風になる。修学旅行に月イチでは行きたくないのと同じだ。
僕にとって、そのワクワクという状態は、日常にあればあるほど「イイ」ものとはどうしても言い難い。せいぜい、年に2~3回でいい類のモノだ。
ただし、それは何も「人生に快など要らない」という極端な求道者のようなことを言いたいという意味ではない。僕にとっては、”ワクワク”より好きな状態があるだけだ。
それは「没頭」だ。対象に意識が向きながら、心がどこまでも鎮まるあの時間。頭に浮かぶ雑念が消え、自分の輪郭が溶け、世界の一部になっている感覚。
この間、心は躍っていない。むしろどこまでも、凪だ。イベントで例えるなら、それが”終わった日の夜の、寂寞感と充足感が混ざった感覚”という具合だ。
正直この感覚は、毎日あってもいいくらいの時間だ。これをするとその先にワクワクがあるか、よりも、自分は充足感を得られるだろうか、という問いの方が重要だ。
羽生善治氏や佐渡島庸平氏の著書を読んでいると、彼らの将棋や編集への向き合い方はどこまでも真剣で、かつ静かだとわかる。それを僕は、”良いなぁ”と純粋に思う。
その一方、例えば毎日世界中を飛び回り、レジャーやゴルフから演劇鑑賞や番組収録までアドレナリン全開で遊びまわる生き方、それを体現している自分を想像できない。
僕はワクワクするために何をするか考えるのではなく、没頭時のあの静かで満ち足りた時間を得るために何かをしていたい。その方が、よほどモチベーションは上がる。
そういうわけで、"ワクワクする"感覚を追い求めるのはやめることにした、という次第なのである。では今日はこの辺で。