精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕は僕に謝らないといけない。

ここ数日、体調を悪くしていた。ただし正確に言えば、”動けなくなる一歩手前”の状態でだましだまし凌いでいる感じで、ギリギリ何とか仕事はできていたのだ。

 

規定量カツカツのサプリ・風邪薬を頓服しつつも、授業や仕事が一区切りつけば椅子に腰かけたまま数分動けなくなる。本当に”寸前”だったのだと思う。

 

だがその間も、自分の潜在意識の方は本当にかしましかった。「そんなので手を止めていたら甘い」とか、「仕事が溜まるぞ、ほら動け」とか。

 

「お前、自分で休日は要らんとか言っておきながら、これしきの体調不良で休みを求めるのはあまりにもダサいぞ」みたいな声もしたと思う。精神の方も、どこか病気だ。

 

普段なら、こういうメタからの理不尽な冷罵も、表現が下手なだけでつまり僕を叱咤激励する声のようなものとして、ありがたく頂戴していた

 

だが今日はもう、それどころじゃないところまで体調が悪化してしまった。だからその冷笑的激励を、遂に無視してしまった。ではその結果、どうなったか。

 

今思うことは、”僕は僕に謝らないといけない”という、この一言に尽きる。以下、そんなお話をば。

 

 

理想と現実、どっちが大切か。

 

理想としては、今抱えている仕事は全て終わらせるべきだ、というのは頭では承知している。たとえ体調不良であってもパフォーマンスを落とさないのが一流だ、と。

 

だが、それは全然冷静な思考ではない。客観的に見れば、具合が悪そうな人が居れば、こちらがする声掛けはほぼ2つしかないだろう。

 

一つは労い、もう一つは仕事の把握だ。まずはその人の体調を慮り、そのうえでその人の抱えているタスクと期限を聞き出し、肩代わりするか延期するかを判断してあげる。

 

そして心理的なしがみつきも緩和したうえで家に帰してあげて、静養に専念できるようにしてあげる。これこそが”本当の理想”に違いあるまい。

 

だが翻って、自分事はどうか。不思議なもので、「具合が悪いくらいで手を緩めるな」とか、「明日でいい仕事を今日やってもいいだろう」とか、そんなことばかり思う。

 

実を言うと今日も3時間だけ出社する用事がマストであったのだが、その用事を終えてからは本当に何も考えられないまま、職場の椅子にぐったりと腰かけるだけであった。

 

休日出社であるゆえに、誰もいない。聞こえてくるのは環境音と、メタからの”帰るのはいいが、目の前のことはやれ”という叱咤激励のみ。

 

だが今回、僕は、遂に自然とその声に抗った「うるせぇ!俺はしんどい!これ以上やったらもう戻れないくらいのところまで壊れちまうよ!!」と。

 

実際そう唱えると、勢いよく立ち上がり、一瞬立ち眩みを覚えつつも閉校作業を済ませ、ふらふらしながらコンビニで甘味を買いあさり、帰宅すると一気に全部食べた。

 

改めて風邪薬を飲み、布団に飛び込む。4-7-8呼吸法を意識しながら神経を緩めていると、そのまま自然と寝落ちし、4時間も経過していた

 

だが今、薬が効いているだけかもしれないが、体調は完全に戻ったと言ってもいいくらい、心身ともに健やかだ。メタの激励を”突っぱねたから”こそ、得られた回復。

 

自然と思考も未来のことに向けられていき、今日残したタスクも、明日20分だけ早めに出社すれば問題なく片付くと冷静に計算もできている。

 

その20分のために、体調不良のまま1時間以上を捧げようとしていたことに、僕はどこか慄然としたものを、今は覚えている。

 

「ちょっと!〇〇ちゃん泣いちゃったじゃない!」

 

ここまで考えたとき、”似てる”と思った記憶がある。体験できたことが稀有だと思うが、それは高1のときの合唱祭の練習の話だ。

 

男子が真面目に歌わず、ピアノ担当の女子が泣く。気が強いその子の友達の女子が男子を叱り、全員で謝る。「本当にあるんだ!」と、当時の僕は素直に感動していた。

 

-正直今回も似たようなものだ。知らず知らずの内に誰かを追い詰め、感情の決壊にまで至る。それを僕は、自分の潜在意識から顕在意識に向けて、行っていただけだ。

 

僕のメタは、「明日の私に幸あれ」とは逆に、”自分に”対して極めて厳しい。あの歌では子供の自分を護ろうとするが、僕の場合は、理想の自分にしがみついているだけだ。

 

70点で満足しようとしたら120点にしようとしてくる。明日で良いと思ったら今すぐ仕上げさせようとする。そしてケツを叩く声に、”僕”は都度、承服させられる。

 

正直、不満は無い。実際、その厳しい部分が機能しているからこそ救われた部分は多々ある。僕は割とズボラで自分に甘い。厳しい部分があるから、人並みになれるのだ。

 

だが、今日は話が別だ。追い詰められた人を更に追い詰めることは、下手すれば一生モノの禍根を残す。他人なら離れればいいだけだが、自分事ならそれは不可能だ。

 

だからこそ、僕は僕に謝らないといけないはずだ。”お前”に抗い休養を優先したことを正しかったと認め、そのうえできちんと謝罪の弁を述べるべきだろう、と思う。

 

だが今、僕のケツを叩く側のメタは卑怯なことにどこまでも静かで、意識が届く範囲にいやしない。正義を振りかざすだけのヤツは、思った以上に脆弱ということか。

 

お前の言っていることの7割は正しいと思ってやる。だが、休みたいとか寛ぎたいとかそういう想いもまた、7割以上は正しいのだ。具合が悪いなら猶更だ。

 

別観点からの自分の声に耳を貸さず、コメンテーターみたいな正解論や批評に堕したことに関しては、僕は”お前”を素直に見下す。だからこれを踏まえて調整をしろ。

 

とはいえ頼りにしているのもまた事実だ。これを基にして一層洗練されたコーチとして、これからも頼む。今思うのは、こんなところである。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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