先日、近所を散歩していると、道路脇の排水溝のところから見慣れない動物が顔をのぞかせていた。狐みたいな色の毛皮に、細長い体。あれは、イタチだろうか?
そう思って息を殺し、余計な雑念を鎮め、その場所に近づく。僕の気配を感じ取ると、その生物はサッと姿を隠してしまった。だが、まだ諦めない。

身体をかがめ、さっきまで居た場所に顔を近づける。すると、そいつはまだそこにいた。潤んだ目で一瞬だけこっちを見ると、刹那、一目散に水路の奥へ駆けていった・・。
…いきなり何の話だ、という導入なのだが、実はイタチを見かけるまで、僕は散歩をしながら、答えの出ない仕事の不安を延々と考えていたという裏話がある。
そして今回の一通りのプロセスを経た結果、何か重大なヒントを天から与えられたような、そんな手応えを覚えている。だから今日はそれを忘れる前に、記事にまとめたい。
不安という過保護な感情。

僕は朝が嫌いだ。目覚めが悪いからというのもあるが、起きて、意識が覚めてくるにつれて、ムクムクと”不安”が脳内に立ち込めてくるからだ。
それは指数関数的に強度を増し、認知の全てを侵食し、早くそれについて考えろ、仕事をしろと、メタがひたすらに唱えてくる状態になる。これはもはや日常茶飯事だ。
その日も、それから逃れたくて散歩に出たのに、”それ”はいつまでもついてきて、僕の意識をジャックし続けていた。この不安はあまりにも強く、桁外れの粘力を持っていた。
・・・・はずだったのだが、先のやり取りのように、目の前に現れたイタチの観察に心が吸い寄せられている間、そいつは綺麗さっぱり、意識から消えた。
”そんな不安など、目の前のイタチの観察に比べたら取るに足らないものなのだ”。こういう結論が引っ張れるが、つまりこれこそが、僕にとっての真理なのだろうか。
そしてある意味皮肉なのだが、僕が何に悩んでいたかについて、イタチとの1分に満たないやり取りの後、他ならぬ僕自身が、完全に忘れてしまった。
何か大事な仕事のことを考えていたはずなのにと、最初は結構焦ったのだが、そこから20時間近く過ぎた今、何にも困っていない。つまり本当にどうでもよかったのだろう。
不安感は、脳の原始的な部分から生じる、人間の根源的な感情の1つだと言われる。だから、顕在意識でそれに抗うことは極めて困難だとされる。
一方、好奇心もまた、脳の原始的な部分から生じるものであり、言語でその発露を説明することは、不安と同じくらい極めて困難だと言われている。
そして僕においては、同じ潜在意識同士でも、”不安よりも圧倒的に好奇心が強い”ことが判明した。脳を支配していたそれが、偶然出会ったイタチに完敗していたのだから。
それは即ち、不安に言語で介入するより、好奇心で上書きすることの方が効果的だということになる。これは何かすごく大きなヒントを、僕は偶然得たのではないか?
そしてここまで書いてふと思い出したことがある。過去自分でもブログの記事にしていたのだが、不安と好奇心は、実を言うと同じ系統の感情である。
未知のものに対して、ネガティブに向けば不安になり、ポジティブに向けば好奇心になる。ただそれだけなのだ。
僕は未来のことを知らない。だから不安になる。そして僕はイタチの生態を知らない。だけどこっちは好奇心になる。そしてそれぞれ、逆になる可能性を持っている。
これを分かつものは一体何なのかというと、僕は責任感の有無かなと感じている。仕事には責任が伴う。だから緊張が付きまとう。それは不安に容易に変化する。
一方、イタチの観察には何の責任も要らない。ただ知りたい・見たいだけだ。つまり純粋であり、力みが無く、それゆえ好奇心としてポジティブに解釈できるのだ。
本当に些細な日常の一幕には違いないが、何か人生全体を貫きそうなテーマを再発見した。そんな風に僕は今、感じている。
では今日はこの辺で。