昔からそうだった気がするのだが、僕は”ラスボスがちゃんと強いゲーム”が好きだ。できれば、戦闘の運び次第では普通に勝てないほどの性能を持っていてほしい。
数少ない例外こそあれど、僕にとって非常に満足度が高い作品は、ラスボスがきちんと強く、かつ強い信念や矜持を持っていて、それを貫いた果ての衝突であることが多い。
一概に悪と括れず、「そうなっても仕方がない」闇を背負いながら、彼・彼女なりの正義を曲げない。相手を倒すこと・殺すことに快楽は別に見出さず、むしろ苦悶する。
―だが、一番好きなのはどこかというと、そういうとてつもない水準まで強さを練り上げた存在が、最後の最後に、主人公側もズタボロに追い込みながら、散る刹那だ。
ネタバレになるので作品名は言わないが、体力ゲージをゼロにするとカットシーンが入り、最後は悲しげな音楽や演出で倒れるという場面には心を揺さぶられる。
これに関して、「ただ好き」ってだけで感受しても良いと思うのだが、「ではなぜこんなに強く心に残るのだろう」ということを、ふと考えたくなった。
自分なりにあれこれと仮説を立てて考えていくと、ある厨二くさい理由が見えてきて、なんか微笑ましさと恥ずかしさを同時に感じている次第である。
今日はそんなお話をば。
”自分もそうありたい”のかな―と思っていたが…。

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真っ先に立てた仮説は、純粋な憧れだ。超強い存在というのは、ただひたすらにカッコイイ。だから自分もそうなれたらな、と夢想する。
男子がウルトラマンに憧れるようなものだ。最初はそういう子供の部分がずっと心の奥底に残っていて、こういうのに触れると自然と発露する、その程度だと思っていた。
だが仮にそうだとすると、しっくりこない疑問が残る。ではなぜ僕は主人公側に感情移入せず、いつもいつも、”倒される側が散る刹那”に心が惹かれるのだろうか?
冷静に考えれば、強いのは主人公側の方だ(演出があるにせよ)。だから強さそのものへの羨望であるなら、そちらに心がなびかないと、ちょっとおかしい気がする。
だからさらにその違いを考えてみたが、倒される刹那と同等に心惹かれる場面が、”その後にもあること”に気が付いた。それは彼らのスッキリした表情だ。
自分の持てる全てをぶつけて、それでも乗り越えられない壁の前に倒れ、仰臥して空を見る。そのまま誰に言うとでもない心中を吐露し、そのうえで全てを受け入れる。
その表情からは険が取れ、穏やかな笑みさえ浮かべる。身体は傷だらけで満身創痍なのに、苦痛に顔を歪めるとかそういうことは無い。この上ない清々しさ。
本当に僕が好きなのは、そこまでの流れ全てだ。逆に言えば、最後が見苦しい展開になる場合は、たとえどれだけ善戦しようと、僕にはあまり響かないものとなる。
そこまでの全てへの憧れ、同一化願望があるのだとすれば、僕は”敵わない誰かに何かを止めてほしい”のかもしれない。では一体それは何なのだろう。
ここで、僕が特に心惹かれる敵キャラのプロフィールを思い返す。彼ら彼女らはいずれも、純粋悪”とは言い難い”のが共通点だった。
かつて負った心の傷、抱えて膨張した闇の結果、どこか間違っていると思いながらも、その生き様を驀進してそこまで到達したという物語が非常に多い。
であれば、僕は僕の何を”どこか間違っている”と考えているんだろう。そしてそれを、”なんでもう自分では止められない”と諦めているんだろう。
正直ここは迂闊に掘り下げたら‥今の疲労状態ではまともに受け止められない何かが表出しそうで、なんか怖いという感覚が先立つ。だからまた今度にしようっと。
では今日はこの辺で。