僕の断片を繋ぐとどんなストーリーになるのか。そんなこと、この本を読んでみるまで、あまり深く考えたことが無いテーマだった。
就職活動の一環で自己分析をしたことはあるが、それはとても甘く浅かったことは、今ならよくわかる。僕という人生の総体の体積は、そんなチャチなもんじゃないと。
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とはいえ、いわば末那識こそが僕なのか、というとそんなことは無いとも思っている。その中でも”なぜか”意識に残っているもの。思い出そうと思えばそうできるもの。
この”なぜか”の集合体が僕にとってのWHYならば、それは見つけ、凝縮させ、育てていかなければならないものだと言える。
著者は砂金の例えを出していたが、それは何度考えても本当にその通りだと思わされる。だから今週も、僕のWHYという砂金を探しに行きたいと思う。
- 5月25日(月) 自分の中へ没入せよ。
- 5月26日(火) 雑味もまた旨味なり。
- 5月27日(水) 星座を浮かべるがごとく。
- 5月28日(木) 人生とは…。
- 5月29日(金) 僕の来し方とは。
- 5月30日(土) 何か大事なものを喪失した日。
- 5月31日(日) 堰を切って・・。
5月25日(月) 自分の中へ没入せよ。

自分の物語を紡ぐときは、如何に外界から隔離し、そこに入れ込むかも大切にしないといけないらしい。
それこそスタバに行ってフラペチーノでも飲みながら……という軽い気持ちでやるものではないのだという。
本書には無かったのだが、それこそ当人がルーツと思っている場所を巡りながら語ってもらうというのはどうだろう。
僕も帰省したときなんかは、自然と昔住んでいた場所に散歩へ出ることが多い。これもまた無意識による何かの【確認】なのかもしれない。
5月26日(火) 雑味もまた旨味なり。

過去の記憶で印象に残ったものが、全て煌びやかなことはあり得ない。中には嫌な記憶だってあるはずだ。トラウマになっているものも、あるかもしれない。
思い出すだけで涙が止まらなくなるような、自分の中で折り合いのついていないものは無理に取り出す必要は無いが、好ましくない記憶の1つ1つは、つまりコクを出す。
雑味を除くと、味は良くなるかもしれないが、不思議と感想や印象として弱くなることがある。人生を振り返る際も、この姿勢はとても使える。
勿論不愉快な思いはあるのだが、僕も臆せず、過去の嫌な記憶をたまには引っ張り出してやろうと思う。
5月27日(水) 星座を浮かべるがごとく。

今日、仕事でミスをした。客観的に見ればその大小はわからないし、僕の事後策がどうだったか、反省の質がどうだったか、主観バイアスでは正確なところは不明だ。
だが、”ただのミス”にしては、やたらと悲嘆している自分を感じていて、自分のことなのにどこか驚いて、あたかも泣いている子供を前にしておろおろしている感じがある。
これは恐らく、僕の過去の何かしらのトラウマに触れているからだと今は仮説だてているが、その正体はまだ見えてこない。一体それは何なのだろうか。
これもまた僕のWHYを紐解く大切な材料である。そう解釈し、無理やりでも建設的な方向へ持っていきたいと、今は意志を強く持っている。
5月28日(木) 人生とは…。

人生山あり谷あり。そんなことは今さら言われても何も思わないし、むしろどこか陳腐な響きさえ覚えてしまう。
ただ、それをプロットして書いていくと、それらの強弱が意外と感覚値から上下にズレていることが可視化される。
僕にとってピークだったような記憶は、さほど尖ってない、とか。静かだけどショックな出来事が、深い谷を形成する、とか。
人生山あり谷あり。裏を返せば、自分が山とか谷とか認識してるイベントの集積が、人生として抽出されるということなのかもしれない。
そう考えると、深さが少しは理解できるように思えてきた。
5月29日(金) 僕の来し方とは。

自分の思っていることが、どこまで本音を反映しているかは、意外と当て推量な話だとされる。冷静に考え直してみると全然違った、なんてことはザラなのだ。
本書にも、深堀のヒントとしての問いが残っていたが、その答えは我ながら意外だった。例えば人生における”喜びのマックス”はどこか、という問い。
この答えは、英検1級合格でも、英検準1級合格でも、大学・高校合格でも、そのどれでもないように感じる。そもそも、”これだ!”というのは、特に浮かんでこない。
それはつまり、僕は人生において、そもそも”HAPPY”という感情自体を割とどうでもいいと思ってきた、ということなのかもしれない。そしてそう捉えると、納得感がある。
幸せなんていう再現性の無い劇薬のようなものに振り回されないこと。禅問答みたいだが、強いて言えばその状態こそが、僕にとっての幸せなのかもしれない。
5月30日(土) 何か大事なものを喪失した日。

自分にとっての感情が揺さぶられたイベント。これは含めて良いのかわからないが、先週も起きた。
具体的な内容は割愛するが、本来は共有して当然の重要事項を伝え漏れてしまい、現場が混乱し、そのことで叱責を受けたのだ。
それ自体は当然のことで、甘んじて受け止めねばならない。僕は当事者全員に、面と向かうことが叶わなかったので文面で反省を述べた。
普段ならそれでいいはずだ。だがなぜか僕はそれに、飼い犬や祖父の死に匹敵する喪失感を覚えた。
そしてその日の夜、酩酊したことに加え、YouTubeのリコメンドに【泣ける】系の動画が出たことから、そのまま普通に止めどなく泣いてしまった。
……なんと打たれ弱いのか。最初はそう思って我ながら呆れたが、今はもっと「ゾッとする」仮説を立てている。
そのミスで感情が決壊するほど、自分がずっと限界ギリギリで踏ん張っていたことに無自覚だった。だから、怖いのだ。
2ヶ月以上続いた、社内体制や人員配置の変更に伴うドタバタ。合格不合格の一喜一憂。テスト週間の連続。
そして終いには風邪を引く。ここまで頑張り続けても、ミスは出る。自分の能力や精神の限界を、僕は見てしまった。
あたかも、「元気です、すぐ戻ります」というメッセージを発し続けた人が、既に末期癌で痩せこけ、寝たきりであるというのを知ったかのような。
ただのミスでは済まされない、人生の折に触れて思い出しそうなこの出来事。これもまた僕のWHYに繋がるのかもしれない。
5月31日(日) 堰を切って・・。

聞き手のスキルが問われるのも勿論ではあるが、個人が抱えている物語のボリュームは、得てして桁外れの規模を持っている。それこそ本が一冊、書けるほどに。
実用書の何割がそれに当たるのかは知らないが、編集者が著者とインタビューを行い、それを文字に起こし、二人で校正して、仕上げていくスタイルが今は主流だそうだ。
そして出来上がる本は、150ページ~300ページの間に収まる、と思う。それを一人で書き上げるのは極めて困難で、それこそ一握りの人間にしかできないだろう。
だが、シェアすればそれは、途端に非現実的な話ではなくなる。堰を切ったように、というのは、比喩としてとても良いものだなと思っている。
では今日はこの辺で。