遊戯王のかなり印象的な場面に、「マインドクラッシュ」というのを主要人物が食らうシーンがある。簡単に言えば心を砕かれ、完全に放心状態になるというものだ。
これだけ聞くとえげつない罰ゲームにしか聞こえないのだが、その後その人物の純粋な部分が心の中でピースを拾い、ゼロから組み立てる描写が入るので、まだ救いがある。

そして、だ。大げさにしか聞こえない話だが、最近僕もまた、いわばこの【マインドクラシュ】を受けたような感覚を抱いていて、今もそれが持続している。
勿論普通に意識がある時点で似て非なるものなのだが、ずっと自分の中にいた、僕の功績を否定し、ただ追い立てることしかしない分人が、ここ最近すごく大人しいのだ。
ずっと握りしめたまま離せなかったモノサシが、ずっと眼前にぶら下がっていたニンジンが、ある日を境にへし折れたり、姿を消したりした感じ。
そして僕の心は久しぶりにすごく穏やかな状態が続いている。これはこれで、何か大切なものがすっぽり消えたような感じがして、まだ少々不安もあるのだが…。
ただ、せっかく心、もとい僕の価値観がバラバラに砕け散ったのなら、それを組み合わせて創る新しい価値観は、もっと自分にとって優しく、有意義なものにしたいな、と。
ということで今日は、それを踏まえて僕が取り組んでいることについて、備忘録としてメモを残しておきたいと思う。
罰ゲーム・・・?

最近の記事でずっと擦っているネタなのだが、きっかけを簡単に言えば、自分の中で長年支えにしていた考え方が、ついに通用しなくなったとはっきり自覚したことだ。
今まで唯一信じてきたものに、裏切られたとでもいうほどの強いショック。乱暴に言えば、一度心が、ハッキリとへし折れたのだ。
ただ、今になって思うのは、「些細なことで折れた」のではなく、「些細な刺激で折れるほど限界だった」の方が正しい気がしている。
では何が折れたのか。僕は長い間、「誰よりも必死にやること」を支えにして生きてきた。人並みのことをやっていたら、人並みの結果しか出ない。
そして、自分には特別な才能があるわけではない。だから人以上にやってようやく並べる。そんな考え方である。ただこれ自体は、別にそこまでおかしな話ではない。
むしろ仕事をする上で、それなりに役立ってきた考え方だったと思う。体育会系の部活に身を置いていた時期があるだけに、これはいわば自然の摂理として身に染みていた。
ただ、その副作用も大きかった。気付けば、自分の気持ちや疲労や限界を後回しにすることが当たり前になっていた。本心や感情より、「もっとやれるだろう」が優先される。
そういう状態が長く続いた結果、心のコップに少しずつ、水のように疲労やストレスが溜まっていったのだろう。長い月日を掛けて、ぽつぽつ、ぽつぽつ、と。
そして今回垂らされた一滴で、ついに閾値を超え、サーっと溢れた。そんな感じだったのだと思う。
その日の夜は珍しく感情が決壊した(泣いた)のもあり、本当に大変だったんだなと今は申し訳なく思う。
では、自分をここまで追い詰めたものは何だったのか。最近の自分なりの結論は、「出来事」ではなく、「解釈」だ。その蓄積が少しずつ、心に負荷をかけていった。
何か問題が起きた時。上手くいかないことがあった時。僕は無意識のうちに、物事を最も厳しい形で解釈していた。しかも、それが自動発動する。
意識して止めることができない。というより、その状態があること自体を、認知できない。今思えば、そこが一番厄介だった。だから止まれなかったのだろう。
自分を徹底的に雑に扱い続けた。その罰ゲームが、価値観の崩壊という形で出た。それくらい綺麗に、僕の心にあった何かしらの塊が、丸ごと消えたのを感じている。
パーツを拾い、組み立てるのは”誰だ”?

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幸い、今回のショックがさほど尾を引くことは無く、丸二日ほどほとんど寝て過ごしたことで、かなり回復した。実際、今はもう、ほぼ通常運転に近い。
とはいえ、まだ本調子ではない。感覚的には、以前の自分を100とするなら75〜80くらいだろうか。だがそれでも、例えば”楽しい”という感覚も、自然と戻ってきた。
考え事もじっくりとできるようになった。もちろん、全盛期と比べるとまだ少し鈍いという焦りはちょっとあるけれど、”やりたいこと”はもう、心に浮かんでいる。
それは認知行動療法的な言い方をするなら、リフレーミングだ。出来事そのものではなく、その解釈を意識的に見直し、変えていくといった意味である。
これまでの自分は、何か起きると反射的に厳しい意味付けをしていた。不運ではない、怠慢だ。不慮の事故ではない、準備不足だ。そんな風に。
だが、本当にそうなのか?僕を責めないままに、自分の糧に出来るような見方は、どう考えても存在しないものなのか?価値観が壊れた今、僕はそれを見つめ直したい。
実際今日も、朝起きた瞬間に仕事のことが頭に浮かんだ。以前の自分なら、「また仕事のことを考えている」「休めていない」と受け取っていたことだろう。
だが、よく考えてみると、それは高校生が家を出る前に、「今日は何の授業があるんだっけ」と考えるのと大差ない。別に異常ではない。むしろ自然なことですらある。
さらに言えば、確認一つで、より丁寧な準備にも繋がる。つまり不安を持つことそれ自体は、全く悪いことではない。不安だと、悪いことだと思うから、悪影響なのだ。
そう納得した時、「なんで自分は朝に予定が頭に浮かぶことを、いちいち気に病んでいたんだろう」と少し拍子抜けした。こんな風に、頭の中の常識を、丁寧に塗り替える。
もちろん、一朝一夕で変わるとは思わない。おそらく数ヶ月どころか、数十年の経験を経て、自分の解釈の癖はコンクリートの如く固まっている。
だから、これからやることは単純だ。そのエラーを一つずつ見つける。見つけたら、もう少し穏やかな解釈に置き換えてみる。それを地道に繰り返していく。
時間はかかると思う。だが、その先に、自分にとってもっと収まりの良い考え方や生き方があるのだとしたら、それは十分やる価値のある投資だ。
僕の崩れたパズルのピースを拾い、丁寧に組み直していく。トゲトゲしていたパーツも、配列を変えれば曲面になっていく。そんな希望を、少し抱きながら。
ということで、今日はこの辺で。