例の価値観がひっくり返るあの出来事から一週間以上が経ったのだが、心身ともに落ち着いて、心が穏やかで鷹揚になった感じが、まだ続いている。
ChatGPTのログなどを読むと、半分病気のようにも見えるのだが…以前の自分は、頭の中で常に警報が鳴っていたような状態で、毎日頑張っていたように思う。

他人から怒られるのではないか。手を抜いた瞬間にクレームになるのではないか。今のやり方で本当に大丈夫なのか。あたかも捕食者しかいない自然界にいるような警戒心。
そんな不安や恐怖をそのまま投影したような声が、目覚めている間ずっと鳴り続けていた。終わった今、それがよく見える。
もちろん今でも、そうした考えが頭をよぎることはある。ただ以前と違うのは、その声を聞いても、「いや、大げさだろ」と即座に突っ込めるようになったことだ。
そして、その状態がだんだん定着してきている。それは即ち、以前の僕が「怠惰」「甘い」と思っていた像に、自分が同一化していくことを意味する。
ただ面白いことに、そうなっていくにつれて、過去の自分が予想していたことと、実際に抱く感想が、全く異なっている。今日はそんなお話をば。
厳しくされないとダメになると思っていたが‥‥

正直に言えば、僕は覚悟していた。あれだけ不安や危機感に突き動かされていたのだから、それが消えたら仕事のパフォーマンスもかなり落ちるだろう、と。
残業が増えるかもしれない。仕事が雑になるかもしれない。それでも、自分を虐げることを止められて、幸福度が上がるなら、それでいいか。トレードオフみたいなものだ。
そんな風に思っていた。ところが、実際に起きたことは真逆だった。なぜか、仕事が終わるのが、自己最速クラスに早くなったのである。しかも生産量はむしろ増えている。
以前は定時を30〜40分ほど過ぎるのが普通だった。それが最近は、特に頑張った記憶もないのに、定時ぴったりで仕事が終わる日が増えている。
昨日も一昨日もそうだった・・・というか、あの日以来、ずっと”そう”だと気が付いた。以前より精神的に全く力んでいない。抜け漏れがあって当然なはずなのに、終わる。
普段なら必死でキーボードを必死で叩いている時刻に、家で寛ぐ自分に気づいてふと、「あれ?なんでだ?」と自分で驚くくらいだった。
そこで少し考えてみた。なぜ今の方が仕事が終わるのか?仮説として、自分にとって保険だった”不安”というものは、実は思った以上に集中力を奪っていたとたら、どうか。
未来のトラブルを先回りして回避しようとする。評価を下げないように警戒する。失敗しないように気を張る。それを常時発動する。
一見すると仕事熱心に見えるが、そのために脳のリソースが大量に消費されていたのだと思う。つまり、目の前の仕事に集中しているつもりで、実際にはできていなかった。
どこか意識が上滑りしていたのは、確かに感じる。それが今は、まるで違う。評価が下がるかもしれない。怒られるかもしれない。そんなことが、重要ではなくなった。
すると、余計な警戒が減る。結果として、目の前の仕事だけに集中できる。集中できれば、当然終わるのも早い。すごくシンプルな帰結である。
最初は、「もしかして今だけ異常に調子がいいのでは?」とも思った。いわゆるボーナスタイムのような状態なのではないか、躁鬱の躁の部分に近いのでは、と。
だが、振り返ってみると違う気がする。能力が上がったのではない。元に戻っただけなのだ。頭の中で同時に立ち上がっていた30個、40個のタブがほとんど、閉じただけ。
結果、本来持っていた処理速度が戻った。そう考える方が自然だった。思えば僕はずっと、効率を上げる方法・集中力を高める方法・生産性を上げる方法ばかり探してきた。
だが実際には、余計なものを減らすことの方がはるかに効果が大きかったのかもしれない。現状を変えるために、足し算で考えず、引き算をまずは試みるべきだった、と。
・・・昔から「ゆとりがある方がうまくいく」と聞くたびに、どこか胡散臭さを感じていた。だが今なら少し分かる。ゆとりとは、決して怠けることではない。
頭の中を埋め尽くしている不要なノイズを減らし、本来の集中力を取り戻すことなのだ。そう考えると、確かにゆとりは大事である。
そしてもう一つ思う。頭の中のものを吐き出すことは、本当に重要だ。ただ、多くの場合、自分が思っている以上に溜まっている。
だから思った以上に腰を据えて、時間をかけて、吐き出し切った方がいい。今回の経験で、それを強く実感した。僕はようやく、ゆとりを肯定できそうである。
そしてそれをさらに祝福しつつ、受容する。いずれそこまで到達したいと、そんなことさえ考えている。ということで、今日はこの辺で。