最近、自分の心の持ちようの変化について、毎日のように記事を書いている。それくらい今の状態は新鮮であり、観察して言葉にするだけで次々と発見が出てくるほどだ。
とりあえずの呼称として、涅槃ほどではないが静かには違いないということで、【寂静(じゃくじょう)モード】と最近は呼んでいる。それくらい、心穏やかなのだ。

ただ当然ながら、これはこれで良いことばかりではない…と思っている。何かその反動で、”失ったモノ”もあるはずだと。
以前の自分の中には、「理想を追求し続けなければならない」「手を緩めたら終わる」「もっと頑張らなければならない」という、ある種の脅迫観念が存在していた。
それは、振り返れば相当に苦しかった。だが、そのおかげで維持できていたものもあったのではないか。最近はそんなことも考えるようになった。
思い出補正とは言え、血反吐を吐くような部活動の練習も、時を経た後になればどこかいい記憶に変わるのと似ている。
そこで今日は、その疑問?をベースに、以下自省してみた結果を書いてみたいと思う。
よくも悪くも、ゆるくなった。

まず一つ目は、詰めの甘さである。周囲への警戒心や、自分の一挙手一投足への過剰な意識が弱まった結果、自分へのフィードバックがとても減ったように感じている。
「今の言葉遣いは少しまずかったかな」「もう少し丁寧にできたかもしれないな」という反省も、以前ほど強く生じなくなった。
もちろん、それ自体は悪いことばかりではない。以前は必要以上に気にし過ぎていた部分もあったからだ。
だが同時に、「ちゃんと反省できているのだろうか」と不安になることもある。受け取り方は相手の課題といって、自分の言動への感度まで落とすべきではない気がする。
最近は、少し油断している自分が顔を出す場面もあり、「これがさらに堕落しないよう、気を付けたいな」と思うことも増えた。
ただこれに関しても、良い変化がある。例えば電話だ。僕は昔から電話が苦手だが、最近は、不思議と余裕を持って相手の話を聞けるようになった。
相手の出方を落ち着いて観察できるし、アドリブにも対応しやすい。結果として、以前より実りある会話ができている感覚もある。
だからこの「詰めの甘さ」も、単純に僕の能力値や意識付けが、シンプルに悪化したわけでもないのだろう‥と、今なら冷静に分析できるようになった。
二つ目は、緊張感についてである。これも先のと少し似た話になるのだが。最近、自分は全体的に、少し緩くなった気がする。
睡眠時間を最優先して9時間くらい寝たり、お金の使い方が少し雑になったりと、細かな部分が段々とルーズになっている気がしている。
もちろん、「自分を許せるようになった」と言えば聞こえは良い。だが裏を返せば、「ただだらしなくなっただけではないか」という見方もできる。
恐怖や不安に支配されなくなったことは良いことだ。だが、それを理由にズボラな部分まで肯定し始めると、それはまた別の問題になってしまう。
とはいえ、冷静に考えれば、これはそこまで深刻な話でもない。むしろ、自分がその変化をちゃんと観察できていることの方が大事なのだと思う。
以前なら、「この状態は正しいのか」「間違っているのか」と白黒を付けたくなっていた。だが今は、「良い部分もあるし、悪い部分もある」という見方ができている。
それだけでも十分な前進なのかもしれない。だから今後は、この状態を手放しで肯定するつもりもないし、否定するつもりもない。これが暫定的なスタンスになった。
今の寂静モードを楽しみながら、残したい部分は残し、不要な部分だけを少しずつ修正していく。時には過去の習慣・マインドも拾いに行く。
そんな風に、自分なりにカスタマイズしていけたらと思っている。ということで、今日はこの辺で。