精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕は「観察しているときの自分」が一番好き。

以前も少し触れた話ではあるのだけれども、「自分の中には、不安や恐怖すら一瞬で吹き飛ばしてしまうほど強いトリガーがある」ということを認識している。

 

普段の僕は、未来に対する不安や警戒心にかなり強く影響される。仕事のことを考えたり、人間関係のことを考えたり、先回りしてあれこれ想像したりもする。

 

だが、そんな状態であっても、一瞬で意識を全部持っていかれてしまうものがある。それが何かというと、生き物だ。それを見ると、その観察にすぐ、没頭できる。

 

例えば散歩中、仕事の不安について考えながら歩いていたとしても、道路脇にカナヘビを見つけたり、イタチが走り抜けたりすると、一瞬でそちらに意識を持っていかれる

 

そして観察している間に、「さっきまで何について悩んでいたんだっけ?」となる。本当に、それくらい強い。何なら今日も、その一幕があった。

 

仕事を終えて校舎の鍵を閉め、明日の予定やら仕事の段取りやらを考えながら外へ出た。すると、扉の近くに、コクワガタのメスがいた。

 

手に取って眺めているうちに、僕はさっきまで考えていたことを完全に忘れていた。それは今も、思い出すことができない。

 

もちろん、全ての生き物に同じ反応をするわけではない。だが、自分の中で「レアだな」と感じる生き物に遭遇すると、それまでの認識が全部吹き飛ぶことがある。

 

そして今回、その理由について少しだけ理解が進んだ気がする。だから以下それについて、完全に個人的な哲学について考えをまとめてみようと思う。

 

 

僕は「観察しているときの自分」が一番好き。

 

この一連の出来事を反芻していると、ふと思い出したのが、平野啓一郎氏の『私とは何か』に書かれていた内容である。

 

あの本では、「自分が最も好きな自分の分人を理解し、その状態でいる時間を増やすこと」がひとつの提案として語られている。

 

その考え方を踏まえて今回の出来事を振り返ると、ひとつ腑に落ちることがあった。そもそも論、”僕が好きなのは、生き物そのものだけではない”のかもしれない。

 

正確には、生き物を観察している時の自分が好きなのではないか。そう考えると、ものすごく納得できる。特に潜在意識側からの反論も無いほどに。

 

観察している時の自分は、ただ目の前の対象を見ている。そこには不安もない。恐怖もない。評価もない。ただ純粋に、興味だけが発露し、存在している。

 

僕はその、全てが剥がれた没頭状態が好きだ。ただ「無」と括るのも、「ワクワク感」と捉えるのも違う、また異質の、穏やかで充実した、あの時間。

 

―そして、ここでさらに繋がってきたものがある。僕は昔から、「アホの子が好き」

とよく言っている。もちろん恋愛的な意味ではない。観察していて面白いからだ。

 

予測不能で、何をするか分からなくて、見ていて飽きない。そういう人に対して、僕は強く惹かれる。今回改めて気づいたのだが、それも結局は同じ構造なのだと思う。

 

僕はその”人”が好きなのではなく、生き物を見る時と同じ目線で、その人を見ているからこそ、単なる人間以上の興味を持つし、観察に面白さを抱けるのだ。

 

極端な話をすると、僕の中では魅力的な異性、珍しい昆虫、変わった人、面白い人が、同じカテゴリに入っている。全部、「観察対象として興味深いもの」だ。

 

もちろん、これは以前から薄々気づいていたことでもある。ただ今回、「なぜそれが心地良いのか」という部分まで言葉にできた気がする。

 

観察している時の、環境、思考、時間、そしてひっくるめて、総体としての自分が好きだから。たぶん、それが答えなのだろう。

 

そしてここまで来ると、次に気になるのは、「どういう人に対して、自分は観察者モードになるのか」という条件である。そこはまだ自分でもよく分からない。

 

だが、35年近く生きてきて、「こういう人が好き」という定義を、ようやく言語化できそうなところまで来た。そういう意味では、かなりワクワクしている自分もいる。

 

ということで、今日はこの辺で。

 

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