精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「才能も無ければ、努力もできないヤツ」

YouTuberや、色々な競技で活躍してくると出てくるのが、アンチという存在だ。足を引っ張ることばかり考えて、根も葉もないことを事実みたいに並び立てる。

 

そういうコメントは見ていて嫌な気持ちになるので、なるだけ見ないようにしているのだが、1年前にたまたま目にしたアンチコメントへの”返し”が、未だに忘れられない

 

それは確か、とある若手のアスリートに送られたDMか何かだ。正直内容は、言いがかりというか、妄想100%で、それ自体がとても痛々しかった。

 

曰く、「こんな短期間で成長できるわけが無い!絶対にズルしてるに決まってる!みんな!騙されちゃだめですよ!」といった感じ。

 

そして僕が忘れられないのは、そのコメントにあった返答だ。うろ覚えなのだが、大体以下のような返しだったと記憶している。

 

才能も無ければ、努力もできないヤツって、こうやって言いがかりつけて足を引っ張ることしかできないよね。

 

或いは、足を引っ張れたつもりになっている、というか。

 

人間的な器としても格としても、完敗していることに気付けていない。そういう意味ではただ哀れなだけの存在なので、コイツが何を言おうと、どうでもいいよ」

 

ちなみにこのコメント主は、当事者のアスリートとは別の人だ。だがその人のプロフィールにある経歴を見ると、打ち立ててきた実績は匹敵するものがあったように思う。

 

・・・なんというか、ぐうの音も出ない。これ自体の「アッパレ!」という印象だけでなく、どちらかというと自省のきっかけとして、僕は下線部の言葉を大事にしたい。

 

才能も無ければ、努力もできないヤツ”。すなわち、僕が誰か、何かに嫉妬しているとき、才能・努力のどちらも無いことを潜在意識では自覚しているのではないか。

 

実は過去、そういう記憶に心当たりがある。今日はそんなことを引っ張り出しながら、記事を書いていこうと思う。

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【人生RTA】あほな自由研究・報告レポート  第十六部 ―睡眠向上サプリを酒で飲んだら身体に起きたこと―

最近、寝起きの体調が猛烈に悪い。自律神経失調症を疑ってしまうくらい、朝が絶望的に起きられなくなってしまった。そんな日々が1ヶ月程度、続いている。

 

具体的には、目覚まし時計が鳴った際は覚醒できるのだが、あまりにも激しい疲労感、ぼやけた視界、働かない脳ミソに苛まれ、そのまままた布団に伏せてしまうのだ。

 

そんな僕が起き上がられるようになるのは、本来起きたい時間から大体2~3時間後。今の仕事のシフトだから何とかなっているが、これでは普通には働けないだろう。

 

本当に色々と試してみた。カーテンを少し開ける。目覚まし時計を遠ざける。起きたらすぐに水を飲む。ストレッチを入れる・・・。

 

その全てに効果が無いか、或いはそもそもその行動を起こす気力さえ湧いてこずに微睡む。そんな日々が連続しているので、本当に心が参りそうなのだ。

 

―が。なぜだろう、なぜだろうとずっと悶々としていた今日、通勤中の車内で、「もしかして・・?」と、一つ気付くことがあった。

 

仕事場に到着してから急ぎGoogleで調べまくったが、それそのものを端的に解説したサイトは見つからない。仕方ないので、ChatGPTに尋ねてみた。

 

そして出てきた解答に僕はゾッとし、自分が良かれと思ってやってきたことが、いわば

「人生RTA」とも称せる愚行だったと、すごく実感しつつある。

 

ぶっちゃけ、僕以外にこんなアホなことをしている人はいないと思う。だが、もしかしたらいるかもしれない。そう思うので、この愚行をきちんと言葉にまとめておく。

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「俺も老いたな」なんてことを言う贅沢は、今の自分に許されちゃいない。

今日は主に「反省」という観点から、自分の仕事に対する考えを振り返り、それを記事としてまとめてみたい。

 

僕は自分が特別仕事ができるとはつゆほども思っていないのだが、最近、そうやって卑下した水準よりもさらに仕事ができてないのではと、少し怖い実感が湧いてきている

 

同級生や後輩たちの中には、僕よりも優れた考え方や働き方をする人たちがいる。それ自体は別に当然のことなのだが、僕より優れた人の方が、周りに多い気がする。

 

それなのに、なぜ自分が肩書や責任を持って校舎を回しているのか、不思議で仕方がない。申し訳なさと焦りが入り混じった何かを、最近ずっと胃の辺りに抱えている。

 

だから何度も自問自答する。「俺はこの仕事を8年も続けているのに、仕事の本質という奴をまだ十分に理解していないのでは?」と。

 

今日はそんなモヤモヤを昇華させるまで、言葉をひたすら並べていく次第である。

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人の目を見れない三十代の告白。

僕は人の目を見られない。自覚したのはいつ頃だったかややうろ覚えだが、確かアメトーークの「人見知り芸人」を観ていた際にふと、そうなんだと気付いた記憶がある。

 

「目を見てくれないねと言われて・・」みたいな悩みを吐露する芸人さん。それに対する共感の嵐。「いやお前、芸人やろ!」みたいなツッコミと爆笑。

 

そのときに僕は、「人の目を見ない方が、実は異常なのだ」と初めて学んだ。僕の中の常識は、世間に言わせれば、真逆どころかコミュ障のそれなのだ!

 

そしてその「目を見られない」という症状に、特に改善の兆し(と意識的な努力)が無いまま、僕は30歳を過ぎ、気付けばそこから数年経とうとしている。

 

そんな今。僕は、本腰を据えて、これに立ち向かおうと何故か心を固められている。なぜこの決意に至ったか、それはよくわからない。

 

試験勉強を先延ばしにし続けてきたけど、「そろそろやらんとさすがにマズいか」と急にスイッチが入ったときの感じに似ている。

 

せめて社交辞令というか、社会のマナーというか、その水準くらいは意識的に目を見られるようになろう。さすがに失礼だし、不信感を与え過ぎる。そう納得したのもある。

 

だから手に取ったのはこの本だ。目から鱗の発見が連続し、買って4日くらいで一周読み切ってしまった。だから今は二周目の再読中だ。

この本を読んでいくと、今まで記憶の引き出しの奥底に突っ込まれたままだった苦い思い出の数々が、何故かどんどんと飛び出してきた。

 

今日はそれを振り返りながら、「人の目を見れない遍歴」の苦みを、じっくり味わってみようと思う。

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【英文読書ルーティン日記185】"Who moved my cheese?"読書感想ブログ完 ~チーズはどこに消えて、あいつはどこへ行く?~

かつて社員研修の場で、僕はこう宣言したことがある。「僕はマンネリズムが嫌いです」と。今思えば、すごく青臭くて恥ずかしい。厨二病だなぁと思う。

 

なぜか。それは、僕の生活は大体、マンネリズムで構成されているからだ。カッコよく言えばルーティンワークだが、つまり変化に、起伏に、あまりにも乏しい

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

そんな僕なので、口では変化を歓迎するようなことを言ったとて、ひとたびチーズの迷路に放り込まれれば、小人の片割れよろしく不運を嘆き、行動を否定するだろう。

 

そして、変化を拒否するという決断をした僕は、その後の未来にもっと苦しい思いをしている僕から、苛烈に否定されている場面が透けて見える。そんな風に思う。

 

僕は変わらない日々を愛しく思っている。それは否定しない。では、禅問答みたいに考えれば、変化を当たり前にしてしまえば、変わることを日常にできるのではないか。

 

自分でも何言ってんだと思う帰結だが、そう思うに至った契機であるこの本を、今週もガッツリと進めていくことにしよう。

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「褒める」ってなに?「褒められる」っていいこと?

「褒める」という言葉がある。それ自体は知っている。だが白状すると、実はこの言葉が具体的にどんな言動や感情を意味するか、あまり腑に落ちていない

 

捻くれているのは承知の上で素直な感想を言うと、「褒める」とは、どこか上から目線で、主観的な意味での「良さ」を満たした人に与える評価、という感じがする。

 

自分が人を褒めるのも苦手だが、言われる方がもっと苦手だ。いつからか、僕は「褒められること」を素直にあまり喜べない性質なのである。

 

世の中に、似たことを考える人はいないのだろうか。いや、いるに決まっている。だから「褒められる 苦手」というワードで検索をする。やはり、そこそこヒットした。

 

今日はそこで知った言葉とかを組み合わせて、記事を書いてみようと思う。

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僕のメタは悲劇しか演じさせてくれない。

子どもの頃の記憶は8割以上が嫌なそれなのだが、その中でも飛びぬけて苦々しいものがある。それは幼稚園の頃のお遊戯会のこと。

 

当時の僕は、今なら多分ADHDと即座に診断されるほど、落ち着きがなく、話も聞けないという、そんな子供だった。自分で自分を評するなら、ザ・クソガキだ。

 

そんな有様なので、当然、流れなど覚えられない。音楽に合わせてあっちからこっちという説明が、左耳から右耳へと抜けていく。当時の先生はさぞ苦労したことだろう。

 

そのまま本番を迎えたので、檀上はいわば公開処刑の舞台だ。一人だけ流れを全く覚えていないことが明白で、ただただ周りに合わせて変なことをしている僕。

 

文字通り、衆人環視の中で恥を晒す。それは僕が周りに、というより、僕を見に来ていた母親が周りに、と言った方が正確だ。なんか、ごめんなさい。

 

―そんな様子をなぜ俯瞰できるかというと、僕がそうやって冷や汗もののお遊戯(笑)をやっている一部始終を、ビデオで観させられたことがあるからだ。

 

いつ頃それが起きたかは、皆目見当がつかない。確かリビングでゴロゴロしていると、突如としてそれは始まったことを薄っすら記憶している。

 

「あんたもこんな時期があったよね~」という母親の懐かしみを帯びた声とは対照的に、僕は厨二病全開の詩をクラスの女子に見られたとき並みの戦慄を覚えてしまった。

 

そんな時期を経た今、僕にとって「演劇」はどんなものになっているか。今日はそんな思い出を基に、なんか書いてみる次第である。

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