精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

「リーダーなのに孤独を感じなくて不安」”でした”。

以下の記事は、書き始めたはいいものの、途中でピタッと手が止まり、そこから1ヶ月くらい放置していたものである。

 

当初のタイトルは、【「リーダーなのに孤独を感じなくて不安」です。】というものだった。確かにその不安は感じていたが、言語化と観察が不十分だったらしい。

 

そこから期間が空いて、色々とインプットを重ねた結果、ようやく「続き」が書けそうという思いが湧いてきた。その過程で、タイトルもちょっと変更した。

 

ということで冒頭はこの辺にして、以下本題である。

 

――ここから、1か月前の記述――

 

ちょっと前の記事でも愚痴ったが、僕は一応リーダー的立場にいるのに、リーダーの方々が感じるという”孤独感”を抱いておらず、そのことが凄く不安になっている

 

部下という言葉は嫌いなのだが、自分の周りで働いてくれる講師も多く、保護者との関係性も、一部の合わない人を除けば良好だと感じている。だがこれは・・正しいのか?

 

僕が孤独を感じていないのは、単に鈍いとかそういうのではなく、考え方や働き方に致命的なバグを抱えているからではないか。そんな恐怖が最近立ち込めている。

 

そういえば、僕がリーダーについてガッツリ勉強したのは、リーダーという肩書を得る”前”であった。

 

なったあとに振り返ってやり直す時間を取っていないことに、ふと気づいた。では今なら、あの時読んだ本や聴いた講演会から、また違った学びを得られるのではないか

 

そう考えて、あの時のガッツリ学んだ教材を再び取り出して、しげしげと読み返している。すると、やはりビンゴ。今の僕に刺さるフレーズは、あのときと異なっている

 

今日はそんな手応えを、言葉にして、ここに書いておく次第である。

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中2地理・近畿地方の予習をしていたら、久々に「面白い!!」と思えた。

昨日書いた記事の、いわば続きになる内容を今日は書いてみる。つい最近、僕の中で、「問いが見つかるまでは予習をする」というラインを設定した。

 

教科書や問題集の解説や説明に、「なぜ?」「どうして?」をぶつけながら読んでいく。それらを解決し、僕なりに納得した理解を得て、それを授業する感じだ。

 

そして近畿地方一つ取ってみても、永遠に終わらないのではないかと思うほど、問いがポコポコ自分の中に生じたのには驚いた。

 

僕は地理の勉強について、地形の特徴から入ることに面白さをあまり感じていない。どちらかと言えば、歴史的な出来事を取っ掛かりにした方が、理解が楽だと感じている。

 

その観点から考えると、色々引っ掛かる。例えば、大和朝廷はなぜここを拠点としたのかとか、阪神工業地帯はなぜ鉄鋼に強いのか、いずれも僕はよく知らない。

 

語句の意味だってそうだ。紀伊半島という言葉を見て、半島ってなんだと思ったし、よくよく考えれば、大輪田泊までどうやって宋の貿易船は来たのか、不思議に思う。

メタボ夫婦の味めぐり 平清盛「わが都、福原」

 

それらを調べていく内に、「あっ、そういうこと!?」という驚きをもって、自分の中に繋がったものがあった

 

そしてそれを知ったとき、「予習ってオモロい!」と、僕は強く感じたのだ。今日は取り急ぎ、その経緯を書いておく。

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「予習」とは、そもそも何を目指してやるものか?

理想の予習とは何か。ここ最近、これを改めて考え直すきっかけがあったので、記事にしておこうと思う。

 

白状すると、僕にとって予習というのは、今からの授業で何をするかを決めたり確認したりする、という程度の意味合いのプロセスでしかなかった

 

だからここ最近は、がっつりとノートに何かをまとめて、綿密な板書計画を作るといった予習を、ずっとしていない。

 

代わりに、日頃のインプットの量を増やして、 本で得た知識や、新しい経験則等を適宜使って、いわばアドリブ的な方法で、しばらくやってきている

 

正直、英語に関しては、僕はそれでいいと思っている。しかしながら、特に国語と社会において、そのやり方は少し改めた方がいいかも、と思うことがあった。

 

今日はそんな話が起点である。

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「学習」と「学問」の違いとは? ―僕は、「学問」がしたいと思う。

国語の類義語という単元を教えていると、ふと言葉が詰まることがある。完全に同じ意味であるならば、同じ言語に2つも同じ意味の言葉は要らないのでは、と。

 

昨日もたまたま、「学習」と「学問」について調べていて、同じことを思った。これら2つは、同じような構成をしているのだが、言葉としては別物だ。

 

例えば「学問の神」というとなんか貴いが、「学習の神」というとすごく弱体化した響きになる。また、「学習塾」というとしっくりくるが、「学問塾」だとなんか違う。

 

だから、どこかにこれらを分かつ差異があるのだと思う。では、それはどんな違いなのだろう。

 

ただの好奇心でそれを調べてみたのだが、これが結構面白く、自分の在り方としても大きなヒントになると感じた。

 

今日はそんなお話をば。

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博物館の原点、「ムセイオン」とはどんな場所だったのか。

僕が本当にやりがいを感じる働き方のヒントは、博物館にあるのではないか。最近はそこを取っ掛かりとして、あれやこれやと調べては考えているところである。

 

その経緯はここ3~4回の記事にまとめていたので今回は割愛するが、今のところの手応えは、「多分そう」という程度である。

 

その過程で今一番気になっている言葉が、タイトルにも書いた「ムセイオン」だ。これは「museum」という単語の語源であり、時代は古代ヘレニズムにまで遡る。

 

元々ここは、当時の世界最高峰とされる学者を集め、研究を推奨し、その発展と公表を目的とした学堂である、といった感じの説明がある。

 

ここに「展示」と「公開」、あとは「収集」という要素を追加すれば、確かにそれは博物館になる。芸術品に特化したら、「美術館」だ。

 

この場で行われていたことが、僕の想像通りであるならば、僕が学習塾というビジネスを通じて成し遂げたいことは、僕なりの「ムセイオン」の創造にあるのではないか。

 

そんな書いてて恥ずかしくなるほど厨二的な答えが、今の僕の暫定解だ。だが、これがしっくりくるから面白い。

 

とはいえ、ムセイオンという言葉を知ったのは、この記事を書いた前日だ。そんな浅い理解と知識で、暫定解に据えるのも違うと思えてくる。

 

ということで今日はそもそも論、「ムセイオン」とはどんな場所だったのか、断片的な情報を集めながら、調べていきたいと思う。

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これから強く意識すること。それは、”教え”や”学び”の可視化である。

ろくすっぽ結果らしい結果を出す前に公言するのも恥ずかしいが、僕は今、校舎長としての自分の在り方を意識的に変えようと努力している。

 

僕は場を預かる者、チームを率いる者”ではなく”、場所を場所たらしめるため管理する者であるべきだ。そんな風に考えている。

 

そう思うに至ったプロセスは、以下の記事2つにまとめたので今回は割愛するが、その後になってまたある気づきが自分の中に湧いている。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

美術館を英語で言うと「art museum」という語を当てるのだが、これはつまり、「芸術品のmuseum」という意味だ。では、そもそも「museum」とは何か。

 

英英辞書においては、以下のように説明されている。

 

a building where important cultural, historical, or scientific objects are kept and shown to the public

 

重要かつ文化的・歴史的・科学的な物が保存・展示公開されている建物

 

これ自体は「でしょうね」という面白みに欠けた定義なのだが、語源まで調べると、すごく面白いことがわかる。今日はそれをテーマにした記事である。

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「面倒くさい」とはなにか。

最近、主に仕事から帰ってからの時間で、以下の本を読みこんでいる。

これが非常に読み易いのは勿論、書いてある内容が凄く実践的で、読んで満足というより、「自分も観察してみたい!」という気持ちにさせられるのが有難い。

 

僕は僕の感情に無自覚だ。そのことを知覚できただけでも、すごく有益と言える。無知の知というものだろうか。

 

それに関して、自分の中で全く解像度が高くない、ある感情・・・というより、”感想”があるのに気が付いた。それは、「面倒くさい」である。

 

面倒くさいという言葉を使わない日の方が少ないほど、僕はこの言葉を多用する。それなのに、これはつまり何を言いたいのか、それがうまく言葉にできないのだ。

 

こういうテーマこそ、格好の観察対象だ。そう思ったので、腰を据えて僕は、「面倒くさい」という言葉と向き合ってみることとする。

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