最近買ったこの本が大当たりだった。まだ中盤というところなのだが、既に何枚の鱗を目から落としたか知れないほどである。
これを手に取った理由は、テーマが仏教であること、そして佐渡島庸平氏が推薦していたことの2点だ。
失礼ながら著者やポッドキャストありきで買ったのではない。だが今、そこまでひっくるめて、興味が広がってきている。
さて。まだ途中なので感想文は控える(書けない)が、この本で出会った言葉の中で、僕の中で意味合いが大きく更新されたものがあるので、紹介したい。
それは「一切皆苦」だ。僕はこれを、「世の中はあまねく苦しみが伴う」というネガティブな覚悟を決めろ、的な意味だと思っていた。
しかし、この解釈は正確ではないことを、今回学んだ。それによって、幾分物事の受け止め方がラクになったと感じている。
今日はそんな話を書く。
世の中全て苦しみがセット。だから……
著者の松波龍源氏は、「一切皆苦とは本来ポジティブな意味である」と書いていた。これはどういう意味だろうか。いわゆる最悪マネジメントのことだろうか。
実はそういうことではなく、どんな楽なことにも苦の種はあるのだから、そこにも意識を向けて、感情や気分の乱高下を防ごう、といった話だった。
例えば、昇給すれば大体の人は嬉しい。だが昇給することは、立場や責任の増大も、普通はセットだ。
今以上の力量を期待された上でその決定が成されているのだから、さっさと鍛えて能力を上げねば、そのポジションで無能扱いされるだろう。
これこそまさに、ピーターの法則の、最も典型的な例だ。そして楽と思われる出来事の中に苦が潜む、一つの例である。
もちろん、苦のことだけを考え続ければ、悲観主義に陥って辛いだけだ。あくまでも、その可能性に、ふと意識を向けるだけでいい。
そうすることで、天狗にならず、足を揚げず、調子に乗らなくなる。この謙虚さが、ある意味大打撃な将来のネガティブを防げるのだ。
ここで思い出すのが、「大局観」で知った「惜福(せきふく)」という言葉だ。これは何かというと、降り注いだ幸運を使いきらず、一部を他者や未来に渡すことである。
実はこれと「一切皆苦」は、とても相性が良い。手放しにラッキーを喜び尽くすのではなく、その状況下であっても、リスクになり得る点や改善点にも意識を向ける。
そうすることで、結果として苦しみを減らし、持続的な幸運を自他へもたらせるのではないか。こう考えていくと、すごく点と点が繋がり、心地よさを覚える。
ところでそもそも論、この「苦」とは何なのだろうか。心身にとって辛いこと、例えば怪我や失恋が、具体例として正しいのだろうか。
色々読んでみたが、結果ここの説明で一番腹落ちしたのは、このnoteの記事だ。
いわく、「苦しみとは、思い通りにならないこと」だという。この定義を知って、思わず膝を打ちそうになった。
一切皆苦の意味合いが、「世の中って大体思い通りにはならないよ」という風にも聞こえてくる。こんなのは当たり前に聞こえるが、僕らはこの真理を簡単に忘れる。
「世の中は思った通りにはならないものだ。幸福の中にだって、実は不幸の種があるもんだ。じゃあそのうえで、さて、どうする?」
そういう風に、優しくも、前向きで、それでいてそっと背中を押してくれているような想いを、僕はそこから感じ取っている。
この世に存在する悩みや苦しみとの向き合い方は、ほぼ全て仏教の中で説かれていると言う人もいる。先人たちの観察力には、本当に舌を巻くしかない。
僕も死ぬまで、思索を止めずに在りたいと思う。
では今日はこの辺で。