精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「一切皆苦」という仏教哲学と、過去のクソ記憶が、僕の心を一番整える説。

仏教哲学を独学で学び始めて久しいが、今一番自分にとって大事だと思う考え方は、一切皆苦である。これについて5か月前にも記事にしたが、解像度がちと低い。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

その当時は、「楽しいとき、幸せなときの中にも、苦に繋がる種は隠れているから、喜んだり楽しんだりしつつも、冷静な心を持とう」みたいな風に解釈した。

 

しかし、今はもうちょっと深いところというか、「多分その理解だと本質から若干ズレてるよね」という印象を持つに至っている。

 

実際、ChatGPTに聞いてみたが、僕が感じたようなことはあまり含まれていないことに、すぐ気付く。

 

一切皆苦」という考え方は、仏教の基本的な教えの一つであり、四諦(しせん※本当は『したい』)の一つとして知られています。

 

この教えは、仏教において生老病死(しょうろうびょうし)や人間の苦しみについて理解するための重要な概念です。

 

具体的には、「一切皆苦」は以下のような意味を含みます:

 

生の苦しみ: この教えは、生まれること自体が苦しみを伴うという考え方を含んでいます。生は必然的に老いや病気、死へと至る過程で、さまざまな苦しみを経験するものであるとされます。


変化と苦しみ: また、「一切皆苦」は、人生や世界のすべてが常に変化することを強調します。この変化の中には、我々が望むことや求めるものがいつも保持されず、結果として不満や苦悩が生じるという考え方が含まれています。


心の苦しみ: 仏教の観点からは、心の中に生じる執着や欲望、無知が、我々に苦しみをもたらす要因となっているとされます。このような心の働きが、苦しみを生み出す原因となるとされます。


一切皆苦」の理解は、仏教において重要な出発点であり、この理念を理解することで、人々は自己の状態や世界の本質について深い洞察を得ることができます。

 

この教えは、仏教の修行や悟りへの道の一環として、苦しみの理解と克服に向けた努力を促します。

 

その上で思うのだが、「一切皆苦」という言葉をよりしっかり学んで理解することで、僕の心はもっと狙って”整い”を得るのではないかと感じている。

 

そしてその直感は概ね正しかった。そこへ過去のクソ記憶をスパイスとして加えることで、より効果が増すことも分かった。

 

今日はそんな不思議な話を、記事としてまとめながら、自分の中に一層落とし込めたらと考えている。

 

 

一切皆苦の構えで、人生のハードルを下げる。

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一切皆苦」の言葉の意味を分解していくと、手に負えないほど深い話が出てくるので、ここではあくまで表面的なことをまとめるにとどめたい。

 

一切皆苦の意味することを端的に言えば、この世の全ては「苦」である、というものであるが、ここで言う「苦」とは、「思い通りにならないことを指す」という。

 

例えば、自分がこう在ってほしい、在りたいという像がある。だが、現実がそれとは下にかけ離れているとする。このギャップによって生じてくるのが「苦」なのだ。

 

そしてこの世は諸行無常であり、万物は常に移り変わる。自分の理想を果たしたとて、それが維持できることはあり得ないし、刻々と理想の姿さえ変化していく。

 

この世はそもそも思い通りにならない。まずはそれを受け入れて、直視しよう。それを前提に据え直して、改めて観察と思索を始めよう。

 

―やはり僕は、この「一切皆苦」という言葉から、どこか前向きなメッセージを感じ取っている。皆様はどうだろうか。

 

あれに比べりゃ、有難い。


一切皆苦を認めることで、何が起こるのか。端的に言えば、僕らが当たり前と思っていることが、有難いものに変わるのだ。

 

幸福の基準が一段階下がる、という感じだろうか。この世はそもそも思った通りにならないのだと納得しておくと、たまに願いが叶うと、ものすごく得した気持ちになる。

 

一方、自分が思った通りになると思い込んでいると、そうなるのが当たり前で、そうならなかったら苦しみが生まれるという風に、論理的にも納得の構え方なのだ。

 

一切皆苦を認めると、自分の幸福の基準が一段階下がる。そしてこの価値観については、逆側からもアプローチが可能だなと思っている。

 

どういうことかというと、自分にとってクソな思い出を想起し、それよりはマシだと納得することである。これと一切皆苦を組み合わせると、大抵のことは幸せになる。

 

超面倒なクレーマーに噛みつかれて人格否定までされた経験と、どっちがマシだ?無能な現場監督に八つ当たりされ続けた日雇い労働のあの1日と、どっちがマシだ?

 

考えるまでもない。今の方がマシなのだ。この世はそもそも思った通りにならないのだから、目先の状況はある意味道理どおりである。

 

だが道理どおりでありながらも、クソみたいな日々に比べれば極楽のようなものである。なんなら、過去と現在を同時に肯定できる、トリッキーな思考だと言える。

 

なんなら、クソ記憶という風に実際に体験したものじゃなくても、他の人に起きた不幸とか、もっと悲惨な想定を引き合いに出しても、「あれよりマシ」は生める

 

自分の幸福のハードルを無理せず自然に下げたうえで、日々の有難い事柄に感謝する機会を増やすということ。なんと平和な精神世界だろうか。

 

最近、どこか理想像に囚われている自分に気付いていたが、この構え方を学ぶことで、また一つ能動的に心を整える術を得られたと感じている。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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