精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「1年をまとめて振り返ること」は、さほど意味がないんじゃないか説。

自分の肩書きや立場が変わって約1年が経った。本当にあっという間という驚きを感じているが、会社からこの1年の検証を促す書類が送られてきた。

 

ぶっちゃけ直感としては力量不足を痛感しっぱなしだったの一言なのだが、これはバイアスが掛かりまくっていて、客観性にあまりにも乏しい。何も言っていないに同じだ。

 

得られたことも失ったこともあったし、思った通りに機能したこともあれば、想像していなかった出来事もあった。

 

だから改めて思うのだが、そういうアレコレを一言で反省するのは、とてもじゃないが、無理ではないか、と。

 

これは、歴史の教科書の記述に似ている。あくまで流れとしての本筋を押さえるため、枝葉末節に当たる人物や事件はすべてカットされたものが、あの文章だ。

 

もちろんそれ自体が簡素であるからこそ、歴史を俯瞰できるという強みがあるが、いわゆる面白さや有益さは、大体が取り除かれた部分に隠れているのは皮肉だな、と。

 

そのことを思えば、むしろ情報として全く圧縮せず、過去のスポットスポットをつぶさに再度検証しながら、1年間の反省としてまとめた方が良いのではないかと言える。

 

今日はその気づきを、忘れる前に記事にしておこう。

 

 

1年を”密に”振り返る。

 

良かったことはそれはそれで経験値にするべきだろうが、不満に思っていたことこそ、しっかり記録し、シビアに見つめ、改善していくべきだとずっと考えている。

 

正解した問題を繰り返すより、間違えた問題を何度も説き直す方が、点数の伸びという意味では期待できるからだ。そこは受験勉強と同じなのである。

 

この1年を通じて、正直一番不満に思ったことは何か。端的に言えば、後出しじゃんけんの多さ】である。

 

資料なり計画なりを提出したら、「こういう事情が”実は”あって」という知らないデータを出されることが非常に多く、やっていてとても不毛な思いを何度も繰り返した。

 

認識の不統一・不徹底と言えば簡単だが、これは極めて難しい問題に数えられるものの1つだろう。風通しの良い組織の難しさは、どのビジネス書にもそう書いてある。

 

上の人からすれば、「わからないなら聞け」という話らしいが、例えば全く習ったことも無ければ経験値も無い数学の難題を尋ねるのと似ている。

 

何が糸口になるのかさえ分からない状態では、質問を生み出しようがない。いわば、何がわからないのかわからない、という話だ。今年はそれをとにかく痛感した。

 

と同時に危惧しているのが、僕も後進に対し、恐らくこのままだと「俺も苦労したんだから、お前もその状況になって苦労しろ」と言ったり考えたりしそうという点だ。

 

そんなとき、あるnoteに書いてあった話を読んで、これこそ今の自分がやっておいた方が良いことではないかと思うものを見つけた。

www.sady-editor.com

 

乱暴に言えば、それは今の自分が日々やっている仕事を基に、マニュアルを作ることだ。正直、あとから読む人が参考にするとかしないとかは、どうでもいい。

 

狙いは、”この1年”という言葉の中に溶けてしまった出来事を丁寧に反省・検証するためだ。線とは、点の集合体である。この1年を、僕はそう捉え直したい。

 

例えばこの時期にこの準備を始めたのは、遅かったか、早かったか、それとも丁度良かったか。そのそれぞれに、もっと上手くやれる方法を今なら考えられないか。

 

集中と弛緩を繰り返して、じっくりと圧縮された時間を戻していく。大袈裟にいえば歴史書を読むように、この1年の僕のやってきたことと、そのIFを見つめ直したい。

 

毎日最低でも10分くらい、去年の僕が残したメモや、なんならこのブログの記事、会議資料を集めては資料批判を重ねよう。今はそう誓っている。

 

そうやって濃いマニュアルを完成させたら、どうしようかな。ひた隠しにするだろうか。それとも、共有するだろうか。完成してから考えよう。

 

だが、もし僕自身の経験値を棚卸しできたら、僕は来年、2025年2月28日をもって、仕事自体を辞めはしないが、今の肩書を外してもらうように進言しよう、と考えている。

 

理想は、僕よりさらに年下の後進に引き継ぎたいのだが、そういう新入社員が入る気配はないので、先輩にお返しする、という感じになると思っている。

 

長を引き継いで丸2年で離れるのは、いささか早いようにも思えるが、本来中継ぎの店長みたいなものなので、このくらいで良いと思っている。

 

その先は、何が考えられるだろう。独立を一気に進めるか、エリアマネージャー的なポジションを新設するか、いっそ授業だけ行う流浪の立ち位置に戻るか。

 

だがまずは、どう綺麗に幕引きをするか。その問いが僕の頭上に、巨大な剣の如くぶら下がっているのを感じる。

 

ある意味僕は、2025年2月28日に余命宣告をされたと同じだ。だからこそ、その終わりから現在を見て、色々と考えるべきだと納得している。

 

今自分が抱えてる仕事は、次の人に【夢】として託したいのか。あるいは、自分の代できちんとケリをつけて清算しておくべきなのか。物事の見え方が、かなり変わる。

 

もちろん、本当の死に匹敵するリアリティを再現するのは到底無理だが、特に期限も目標も悲愴感も無くだらだら働くよりはよっぽどマシだろう。

 

勝手に物事を進めるのは僕の悪い癖だが、どういう芯を持って仕事に当たるかは、僕の自由だろう。その一つに過ぎないと、実はそこまで重く考えてはいない。

 

ということで謎の決意表明になったが、今日はこの辺で。

 

 

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