今日は会社の中で、担当している校舎の現状と課題、展望についてミーティングする機会があった。
前もって資料を作成しながら、自分なりにそれらを棚卸しした状態で臨んだので、大体は恙なく進んだのだが・・・”ある質問”で、僕は完全に停止してしまった。
その質問に答えられなかったことが自分でもすごく不思議で、その話し合いが終わった今も、すごくもやもやする気持ちが続いている。
だからこの記事を借りて、そのもやもやをただひたすら、書き殴ってみようと思う。では以下、本題である。
「あの人にどうしてほしい?どうなってほしい?」
その質問とは、とある先輩を指したうえで、「あの人にどうしてほしい?どうなってほしい?」というものだった。
これを考えたとき、自分の頭の中に全く何も浮かんでこず、10秒くらいマジでフリーズしてしまった。苦し紛れに何か答えたが、何を言ったかもう記憶から消えている。
塾講師という仕事を始めて7年以上経つのだが、ここまで一切答えられなかった質問は、英検1級の面接でも無かったほどである。だからこそ、今猛烈に意外なのだ。
なぜこの質問に回答が出来なかったのか。それは項を変えて、じっくり検証したいと思う。
僕はなぜこの問いに答えられなかったのだろう。
誰かにこうなってほしい。この人はここがこうだったらいいのに。先の質問を乱暴に言えば、僕が他人に期待することは何か、である。
であれば、その質問に答えられないということはすなわち、僕は他人に全く何も期待していない、ということになる。
そしてそれは、思い返せばあながち間違いじゃない気がする。僕は周りの人が、僕の理想とする言動を取ることはあり得ないと、心の底から納得している節があるからだ。
そもそも、他人が自分の理想を象るという想定は、するだけ気持ち悪いところがある。あまりにも完璧な異性像を、恍惚としながら語る喪男のようなものだ。
将棋を指しているとき、「この銀が飛車だったらいいのに」とぼやく人はいないだろう。僕にとってはその感覚がかなり近い。
この人は現状、こういう価値観で動いていて、スキルとしてはこれを持っている、だからこれを頼もう、でもこれは自分がやろう。
僕はそんな風に、とてもシンプルな前提で環境を捉えているのかもしれない。他人は変わらない。変われるのは自分だけ。この思考がデフォルト設定なのだろう。
質問一つで自分の盲点がくっきり見えるなんてのは驚きだ。恐らくそんなことは考えていなかっただろうけど、この問いと出会えたことはすごく実り多いと感じている。
終わりに:それ自体は問題なのだろうか?
僕は、「人に期待しない」という考え方に強く共感する。と同時に、自分はそれが全くできていないという認識も、心のどこかに持っていた。
期待とは、見方を変えれば無責任な価値観の押し付けだ。だがそんなことを言いながら、僕は自分の理想に他者が変わることを期待している部分もあるのではないか。
そうやってアンビバレンスなことを感じていたのだが、蓋を開けてみれば、実は全く他人に期待していないっぽいということが、今回判ったということになる。
そうなら、ちょっと思うことがある。これってもしかして、僕は物凄く寂しい考え方をしているんじゃなかろうか。
人は目を掛けられると嬉しく思うという。その気持ちは僕にもある。あるのだが、僕は確かに、別に誰も目に掛けていないことに気が付いた。
その人が将来的にどうスキルアップして、どう成長し、何を身に着けて、どんな風に貢献してくれるのか。そんなことは考えても無駄ではないかと、本気で思う。
いわば、今の天候・風向きを基に、100日後の天気を想像しようとするのに似ている。不毛だし、不可能だ。だから僕は、本気で、その人や環境の今にしか興味がない。
僕は僕のことを変わり者だと考えている。そしてその想いは、考えれば考える程、より深い納得感を伴って、腹の底に仕舞われていく感じがする。
自分が自分に抱く印象さえ、全くアテにならないのか。本当に面白いことに気付けた問答だと、心の底からそう思う。
では今日はこの辺で。