精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

博物館の原点、「ムセイオン」とはどんな場所だったのか。

僕が本当にやりがいを感じる働き方のヒントは、博物館にあるのではないか。最近はそこを取っ掛かりとして、あれやこれやと調べては考えているところである。

 

その経緯はここ3~4回の記事にまとめていたので今回は割愛するが、今のところの手応えは、「多分そう」という程度である。

 

その過程で今一番気になっている言葉が、タイトルにも書いた「ムセイオン」だ。これは「museum」という単語の語源であり、時代は古代ヘレニズムにまで遡る。

 

元々ここは、当時の世界最高峰とされる学者を集め、研究を推奨し、その発展と公表を目的とした学堂である、といった感じの説明がある。

 

ここに「展示」と「公開」、あとは「収集」という要素を追加すれば、確かにそれは博物館になる。芸術品に特化したら、「美術館」だ。

 

この場で行われていたことが、僕の想像通りであるならば、僕が学習塾というビジネスを通じて成し遂げたいことは、僕なりの「ムセイオン」の創造にあるのではないか。

 

そんな書いてて恥ずかしくなるほど厨二的な答えが、今の僕の暫定解だ。だが、これがしっくりくるから面白い。

 

とはいえ、ムセイオンという言葉を知ったのは、この記事を書いた前日だ。そんな浅い理解と知識で、暫定解に据えるのも違うと思えてくる。

 

ということで今日はそもそも論、「ムセイオン」とはどんな場所だったのか、断片的な情報を集めながら、調べていきたいと思う。

 

 

「ムセイオン」を紐解く。

ムセイオンとは | 産学連携・地域貢献 | 静岡県公立大学法人 静岡県立大学


まずストレートに、「ムセイオンってなんやねん」的なキーワードで、Google検索をかけてみる。すると、すごく端的に説明がまとまったページに行きついた。

 

「ムセイオン」とは、古代エジプトアレクサンドリアに興った世界初の学問、教育、文化、芸術の総合施設のことで、ミュージアムの語源になっています。


「ムセイオン静岡」は、この地域の文化関連機関が、自主協働プログラムとして文化・芸術・教育を学ぶ場を提供し、文化を発信する活動をしていきます

 

www.u-shizuoka-ken.ac.jp

 

少し意外だったのが、学問と教育を別物として分けている点だ。そしてそれは、言われてみればその通りだなと納得する。

 

話が反れてしまうが、教育を一言で言うのは、結構難しい。例えば授業は教育か?育児は教育か?信賞必罰は教育か?と問うていくと、共通解がなかなか見当たらない。

 

色んな人の考え方を読んでみたが、一番得心した感覚があったのは、以下の説明だ。これを読んだとき、学問と教育を分ける必要性が、僕の中でも少し、理解できた

 

「教え育てる」の「教」とは、師が弟子を教える意味で、「育」とは、親が子を育む意味と解釈できるでしょう。

 

いずれにしても教育とは、人生経験のある先生や親が、ある道において未熟な人や子どもに知識や技能を示したり与えたりするものだと定義できます。

 

教育する主体は先生や親であり、子どもは受け身的な立場であるかもしれません。しかし、教わった知識や技能などをしっかり理解したり深めたりするのは、子ども自身です。

 

「教育の目的とは?」と問うならば、教育を受けた者が、教わった内容をもとに、進んで学習を進めることにあります。「教育を通して主体的な学習者を育てる」のが、教育の目的といえるでしょう。

 

教育とは何か。教育の定義とは|子どもの未来を豊かにする教育法とは? - Wonder Code

 

すごく端的に言えば、教育は、教えを授けることであり、学問は、授けられた教え等を基に自分で知識を磨いていくことだと言える。

 

学習塾に置き換えるなら、教育は授業であり、学問は自習である、というところか。これらは車輪の両軸であり、どちらかが欠けても、成長という結果には繋がらない。

 

しかし、この2つが同時に達成されている環境であれば、指数関数的な成長さえ望めるほど、ある意味大変理想的な状況だと言える。

 

―ふと思った。この2つが同時に達成されている状況とは、知識や経験が積極的に共有されていることとイコールではないか?

 

教えを受け取る場所でありながら、同時に新たな問いを得られる場所でもある。そこに来た人全員にとって、そうある場所。それがムセイオンのそもそもの意味ではないか。

 

いい美術館もいい博物館も、そこに行ってオシマイではなく、むしろそこに展示されているものによって、新たな問いが生まれる。学問の起点が、あちこちに存在している。

 

その観点から校舎を見渡す。ここに来れば、学校で習う知識の答えは勿論として、問いを持って帰ることはできるだろうか。どうにも自信を持って「ハイ」と言えない。

 

禅問答にしか聞こえないが、インプットの集積を形にして飾ることが、その一端にはなるのかもしれない。だがそれが核心かと言われれば、少し遠い気もする。

 

問いを持ち寄り、学び合う。それを達成する場所は、どんなところか。これが、今の僕が考え抜くべき、大きなテーマのように思える。

 

当時の学者は、どんな表情で、どんな感情で、持ち寄った謎を語り合い、そしてあんなに優れた成果を出し続けたのだろうか。そしてそれをどんな気持ちで受け取ったのか。

 

ちなみにここの館長の一人が、観測と数学で地球の大きさを導出した、エラトステネスだ。この場所の知的水準がどれほど高かった、窺い知れる実績だ。

www.y-history.net

 

ビジネスとしての学習塾でありながら、僕にとってのムセイオンでもある。理念と言えば大袈裟だが、僕が素直に目指したいと思う場所に、また近づいたのを感じている。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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