今日は、昔本で読んだ「教員や講師に求められる心構え」の1つが、最近やっと腹落ちしたことを書こうと思う。
集団授業の生徒制御に苦戦していた頃によく読んだのが、向山洋一氏の著書「子供を動かす法則」である。
この本の中で、教員が持っておくべき心構えの1つとして、「漠然と目の前のことに向き合ってはならない」みたいな教えがあったと記憶している。
例えば、黒板消しを使うときは横に動かすのか縦に動かすのか、 またそれぞれについて、それはなぜかっていうことが説明できなければならない。
漠然と仕事をしないとはそういうことだという一例として、そんなことが説かれていた。これだけでは詳細な説明とも言えないので、腑に落ち切らないところもある。
だからこそ、そこまで顧みることもない教えではあったのだが、最近色んな本を読んだり色んなことを経験したりする中で、ふとこれが頭にパッと浮かんできたのだ。
今日は少し禅問答チックだが、僕なりの「漠然と仕事に向き合わない」ことについて、私見を書いておく。
知っている状態を、良しとしない。
思うに、漠然と仕事をしないということは、目の前に広がる世界・作業・感情等、目に見えるもの見えないもの全てを意識し、問いかけを行うことではないか。
試しに手を止めて、窓の外から見える景色を眺めるだけでも、よく考えたら自分が知らないこと、説明できないことというのは、山ほどあるものだ。
例えば僕は、電柱の果たす詳細な役割を知らない。冬になると草が枯れる理由も知らない。こんな風に、ふと意識を向けるだけで、僕らは未知の真っただ中に放り出される。
気にも留めず、無意識の中でどうでもいいと処理していることに、「そういえば、なんでだ?」と問う。
「そういうものだ」という思考停止ワードを自分に使わず、無意識下にあるものを意識下に持ってきて、考え続ける。
無知に敏感になり、問いを重ねていく。新しい知識を入れ続けるのとは別に、学びを止めないということが、先の言葉に含まれた真意ではないかと、最近は思う。
ではなぜ、これが心構えとして一番初めに持っておかなければならないのだろうか。これは、単に教員や講師、もとい指導する側の器に関わるためだと感じている。
前提中の前提だが、「俺は何でも知っているから、なんも知らないお前らに教えてやるぜ」という信念が透けてみる先生は、単純に嫌な奴だ。話など聞いてやるかと思う。
人間的な器の深さというのは、「俺は知ってるぜ」という傲慢や勘違いを捨てた後に、じわじわと醸し出されていくのかなと。そんな風に考えている。
その第一歩として、「俺は知れた側なのだ」という勘違いを破壊することが大切。そういう意味では、見逃している未知を敢えて意識するのは、確かに合理的だ。
たったあれだけの一言に、教員・講師が強く自戒すべきことが集約されている。本当に学びの詰まった教訓だと感じている。
得た学びを、僕は・・・・
折に触れて念押ししておかないと、自分でも忘れそうになる目標がある。それは、今の働き方から、僕は来年、再来年を目処にじわじわと引退するというものだ。
何も塾講師を辞めるわけではなく、僕が一方的に生徒の前に立って授業をするという立場を卒業したい、という話だ。いわば勝手に視座を上げたいだけなのだ。
以前ガッツリ記事にした通り、僕は自分の校舎をムセイオンとして捉え、そのコミュニティ自体のために働きたいと考えている。
アンラーンを推奨し、あらゆる学びに触れられる場所を創りたい。これが妄想で終わらないよう、心身をイジメている節はある。
理想的な心構えを、僕が僕の腑に落としただけでは不十分だ。あとはこれをどうやってコミュニティに転用するか。目線は勝手にそこへ向いている。
最後はだいぶ独り言めいていたが、とりあえず今日はこの辺で。