精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「学びや発見の仕掛けを作る。」

独立を考えているという話を伝えて、1年くらい経った。伝えてから気付いたが、僕はまだまだ、まだまだ、内省が不十分だ。想いの10%も、言葉にできていない。

 

もちろん目先の売り上げ、会社への貢献が一番大切だ。そこの優先順位は履き違えていない。しかし同時に、僕が”本当に”持っている価値観や理念も、探し出したい


その一環として最近意識的に取り入れているのが、直感的に「イイ!」と思ったことを、ひたすらに記録し、集めることである。

 

この「イイ!」という手応えはすごく感情的で、それゆえちょっとでも時間が経つとすぐに跡形もなく頭から消えてしまい、思い出そうにも非常に難しい

 

だから忘れる前に記録しておき、それをたまに眺めて、何か共通点が無いかと考えるのだ。こうやると、少しずつ固い地面を掘るように、僕の想いに近づけている気がする。

 

今日もその時間を取っていたのだが、そこで1つ、すごく「イイ!」と思うフレーズに出会った。ちなみに、美術館職員の方のインタビュー記事の中に、それはあった。

www.rekibun.or.jp

 

それこそタイトルの通り、「学びや発見の仕掛けを作る。」というもの。ということで、この言葉に出会った結果浮かんだ感情を、霧散させる前に記事にする。

 

 

学習塾という場所を通じて、学びや発見のきっかけを授けたい。


僕は正直、ただ勉強ができる大人が居て、学校のテストの点を上げることだけが目的なら、大層な箱を使って学習塾をする必要はないと感じている。

 

色んな言い訳はあるが、まず僕の心が躍らない。それに、それだけなら僕の上位互換は世の中に溢れており、かつAIも台頭している今、教えるのが僕である意味がない

 

学習塾という形態で、社会から求められる役割を果たしながら、それでいて自分がやりがいを感じられる何かを、この仕事を通じて満たしたい。

 

去年頃から漠然と抱いているのは、こういった不満とも期待ともいえる、未分化状態の思考が混ざった何かである。

 

さて。冒頭で紹介したインタビューの記事を読んでいると、不思議なことに、そういった曖昧な思考が、幾分凝縮するような感覚を覚えたのだ。

www.rekibun.or.jp

 

共感したのは、この方が「仕事内容」として答えている内容である。

 

教育普及事業に期待されている役割は大きく言うと、美術館と人々との回路づくりです。

 

多くの人に興味を持ってもらい、より深い学びや発見のある企画、また来たいなと思ってもらうためのプログラムを考え、実施していく

 

参加者同士が関わることでさらなる学び合いが生まれたりもします

 

ここになぜシンパシーを覚えたか。僕もまた、そこに行けば何かしらの答えや知識、思考の材料が増える場所を、とても居心地が良いところだと感じるからだ。

 

塾はある意味、謎の解き方を教える場所だ。だが、それだけではないと思う。新たな学びの糸口を教えたり、その子の世界に無かった考え方を教えたり、色々できる。

 

そして子どもたちにもそんな受け身な姿勢で授業を受けることを、僕は推奨したくない。それは僕が勉強嫌いだった時分に、そうだった最たる理由の一つだからだ。

 

世界を知らない状態で、他にも楽しいことが山ほどある状態で、純粋にそれ自身を目的に勉強できる子などいない。だから、いわゆる”勉強”をするには、意味と理由が要る

 

昭和の時代は、それが立身出世のためだった。平成初期は、大企業に入って安定した暮らしを得る為だった。では、令和の今、それはなんなのか?

 

実を言うと、それは自分で探すしかない。よくそう言われるし、僕もそう思う。だが子供の頃、その論理がかなり嫌いだった

 

それは、聞かなかった僕も愚かなのだが、世の中のことを何も知らされないまま、ただ「探せ」とケツを叩かれてきたからである。

 

僕が高校受験を頑張ったのは、将来のためではなく、大嫌いなヤツと同じ学校になるのを避けるためだ。

 

そして僕が大学受験を頑張ったのは、これまた将来のためではなく、地方でのんびり暮らしてみたいと思ったからだ。

 

世界を広げるために勉強をしたことは一度も無い。なぜなら、僕の知らない世界がどんなに広いか、特に教えてくれる人がいなかったからである。

 

勉強を頑張ったらどんな世界が待っているか。そんなことを聞かされても子供たちは動かない。そもそも今の世界すら掴めていないのに、なぜ頑張れるというのか。

 

ここまで考えて、ふと気付いた。僕が学生の頃、たいして勉強をしたくなかった理由は、今なら言語化できる

 

ゲームや部活は刹那的な娯楽寄りだが、それでも曖昧模糊とした「将来」なんて、それらに比べれば無価値も同然だったからだ。

 

その当時の「楽しさ」を捨てて得られる「将来」とやらは、あまりにも正体不明で、あまりにもリスキーで、あまりにも大人側の都合を感じてしまう。そんなもんだな、と。

 

例えば「受験」という言葉を小学生の頃に知っていたり、あるいは図書室にビジネス書が置かれたりしていたら、僕の選択はまた変わっていたのかもと、たまに夢想する。

 

子供には無限の可能性があるとされる。だが、その可能性をきちんと活用するには、ヒントが要る。問いに答えつつも、また新たな問いが生まれる、そんな場所が要る。

 

―ところで、先のインタビューにおいては、その人の仕事の「やりがい」についても触れられていた。僕はそれを、「すごく素敵だ」と素直に思った。

 

ワークショップに参加される方は、もともと美術に興味があり積極的な気持ちでいらっしゃる方が多いです。

 

でも、例えばスクールプログラムとして学校の授業の一環で来館する子供たちの中には、「つまらない」と積極的になり切れずに来る子がいる場合もあります。

 

そんな子供たちに、「作品を見るって面白い」「美術館にまた行ってみたいな」と思ってもらえる仕掛けや、体験として深く残るような機会を、学校の先生と協力してどう作るかが私たちの腕の見せ所。

 

最初はつまらなそうにしていた子が徐々に真剣な表情になっていく姿や、自分で見つけたことを誰かに教えたくなって楽しそうに話してくれたときは本当に嬉しい。

 

何よりも誇りを感じる瞬間です。

 

・・・少し受け売りという感じが出るが、僕は「学びは面白い」「知ることは面白い」「考えることは面白い」「伝えることは面白い」と、生徒たちに知ってほしいと願う。

 

学びや発見の仕掛けを作り、学校での五科目の授業を飛び越えて、より広い世界と可能性を知り、能動的に勉強へ向かえる場所。そんなところが出来たら、本当に素敵だ。

 

僕は僕の学んだことをただ見せびらかして、悦に入りたいのではない。僕もまた、この場所で、自分が得たことを共有し、そして新たな問いを得られる一人でありたい。

 

また一つ、自分の夢を知ることに近づけたように思う。もちろん、まだまだ掘り返さねばならない層は、山積みなのだが・・・。

 

焦らず、丁寧に、でも歩みは止めず、ということかな。ということで今日はこの辺で。

 

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