国語の類義語という単元を教えていると、ふと言葉が詰まることがある。完全に同じ意味であるならば、同じ言語に2つも同じ意味の言葉は要らないのでは、と。
昨日もたまたま、「学習」と「学問」について調べていて、同じことを思った。これら2つは、同じような構成をしているのだが、言葉としては別物だ。
例えば「学問の神」というとなんか貴いが、「学習の神」というとすごく弱体化した響きになる。また、「学習塾」というとしっくりくるが、「学問塾」だとなんか違う。
だから、どこかにこれらを分かつ差異があるのだと思う。では、それはどんな違いなのだろう。
ただの好奇心でそれを調べてみたのだが、これが結構面白く、自分の在り方としても大きなヒントになると感じた。
今日はそんなお話をば。
「自立”学習”」はできるが、「自立”学問”」は極めて難しい。
明確にその違いを述べていたのは、↑のサイトだ。そこに書かれた定義を読むと、いきなり「わかった!」という実感が得られる。
学習とは、学びを習うことで、その学びには問題と答えが明確に設定され方法論が確立されているものがほとんどです。
一方、学問は学びを問うこと。学んだことをベースにして「どういうことだろう?」と自分自身に問いかて、自分としての答えや意見を持つこと。
なるほど、こう考えると整理がし易い。学校で教わることは、つまり学習だ。習ったことをテストで問われ、答えがあっていれば〇、違えば×で評価される。
ところで、高校入試・大学入試は、教科書をベースに作られている。すなわち、学校で教わることを広く、深く問うテストであると言える。
学習が定着しているかどうか、今まで教わってきたことが入学に値する水準にまで練られているかを確認する。その範囲を限定すれば、それは定期テストになるだろう。
学習の練度を試されるのがこういったテストであるなら、それを突破する力を鍛えるために僕らが生徒に教えることもまた、「学習」にカテゴライズされるだろう。
だから「学習塾」と呼ぶ。こう考えると、すごく納得感がある。そして同時に、「自立学習」という言葉の意味も、また違った腹落ち感をもって、理解できる。
AIを駆使し、積極的に”学習”する。生身の人間の手を借りず、効率的に”学習”を行う。こんな風に、学習は効率化できるし、そうある方が好ましいという風潮もある。
こういう風潮に一石を投じる動きは盛んだが、学校や入試というシステムが、それに適応できていないと僕は感じている。まあ、ここからは余談になるので止めておくが。
さて。こう考えると、薄々感じていたことが核心に変わる。学習は、実は受動的なことなのだ、と。
先達の知識や経験を、以下に早く効率よく吸収し、そしてテストに求められる答えをアウトプットしてくるか。わかりにくいが、主体的ではなさそうなルールで回っている。
ある意味それと反対の意味を持つのが、学問だ。学んで、わかったと思ったことにすぐ問いを差し向けて、すぐにまた「わからない」状態に戻すこと。そう考えている。
佐渡島庸平氏が観察力の鍛え方で述べていた「エポケー」「あいまい」といった言葉を体現することこそ、いわば学問をする、ということではないだろうか。
ところで、好奇心が強い人の成長は早いとよく言われる。では、好奇心が強いとはどういうことだろう。
これは持論だが、常に学びと問いの連続したサイクルの中に自分を置き続ける力が高いことだと僕は捉えている。つまり、学問が完全に基本姿勢となっているのだ。
わかる、手放す、わからない、またわかる、そして手放す。このサイクルが無限に続き、しかもそれを楽しめるようになったら、なんと楽しいことかと思う。
ただし、むやみやたらに学習ではなく学問を推奨すると、つまり「わからないこと」を肯定するようにも聞こえる。
塾なのにわからせない、わかりにくいという評判が立てば、商売上がったりだ。理念の設計と伝え方は、かなり慎重になる必要がある。
一つの授業という時間のなかで、確かな「わかる」という手応えを与えながらも、「問い」の余白を残すこと。
自分の指導の在り方を見つめ直す、いい問いになったと思う。
では今日はこの辺で。