実はちゃっかり、僕は英検準一級と一級を持っている。(初めて受けたのが準一級なので、そこまでの級は持ってない)
誓って言うが、僕は帰国子女でもなんでもないし、留学経験もない。海外旅行は4度経験があるが、英語圏の国は0だ。
加えて、モンハンのオンライン仲間以外で、外国人の友達がいたこともない。(しかも台湾の方だったし)
小中高と普通の公立だし、大学も英文科でもなんでもない。国際経済学科の出なので、そこだけが唯一の縁かもしれない。
―うーん、我ながら奇跡としか思えない。もちろん結構努力した自負はあるが、振り返っても意味が分からない。
・・・・そんな謎なステータスまで取った僕だが、『英語教育』について広義で思うことは、皆様と多分ズレているという自覚がある。
もしかしたら、英語を勉強しようという熱に思い切り冷や水をぶっかけてしまうかもしれない。
それでも良ければ、僕が思うことを以下に書いてみるので、ご一読いただければありがたし。
- 『円滑なコミュニケーション』能力は、帰国子女や幼少期より研鑽を積んだ方々には敵いません。
- 『論文』や『記事』がスラスラ読める!『文』が書ける!『スピーチ』が得意になる!
- 結局英語は、そういう環境に身を置かない限り、使うことは無いです。
- 終わりに。:今後僕は『英語』とどう向き合うのか?
『円滑なコミュニケーション』能力は、帰国子女や幼少期より研鑽を積んだ方々には敵いません。
ハッキリ言うが、『外国人と冗談を言い合う』とか、『ゲームやCMの音声を完璧に聴き取る』といった『円滑なコミュ力』は、僕はガチ勢には敵わない。
ここで言うガチ勢とは、帰国子女や幼少期より教育を受けた方々を指し、別に蔑称でもなんでもないことはご承知いただきたい。
さて。
僕は英語の学習を13歳から、義務教育の一環で始めたに過ぎない。脳がある程度できてからの学習だと、いわゆる『センス』を磨くには遅いのだ。
幼少期から英語の学習を続けてきた子の発音や、スラスラと英語を用いる力は、本当に舌を巻く。
僕は日本語が頭にある程度入ってから英語を覚えたので、どうしても思考に『日本語』というバイアスがかかる。スラスラ応答とか、夢のまた夢だ。
また、リスニングもある程度から全然成長を実感しなくなった。
いつまでたっても、例えばアメリカのTVショーが6割くらいしか理解できない。洋ゲーが字幕なしだと、半分が限界のことさえある。
日本語で言うところの、標準語は聴けるが、関西弁や秋田弁が理解できない、そんな感覚を覚えている。発音の経験値が、すさまじく偏っているのだ。
―この壁を大人になってからぶっ壊すには、それこそ半年以上の長期で留学に出るぐらいしか術がないと考えている。
英語以外の表現方法を強制的に制限する。この環境に身を置くと、大人であろうと大抵ぺらぺらになって帰ってくるから本当にすごい。
・・だが現状、僕はそこまでして自分の英語力を極めようなんて気はさらさらない。
旅行レベルであれば何とか言いたいことは伝えられるし、別に外国人とリアルタイムで仕事をすることはないので、必要性に駆られないのだ。
聴こえない音声は主にYoutubeで発生するので、巻き戻したり動画に集中したりすれば、全く問題にならない。
それにそもそも、書いてあることが分からないとかそういうレベルなら、Google先生にきけばいい。自分で能力を身に付けるのは、費用対効果が悪すぎる。
・・閑話休題。
有識者が何度も何度も指摘している通り、日本では外国人を相手に英語を実践する場があまりにも少ない。仮に機会があっても、その時間が絶対的に少ない。
ぶっちゃけ、現行のシステムでは、『英語』に触れるチャンスを提供するのが限界な気がする。
その中で自分にセンスを感じれば、自分で学習を進めればいい。そうでなければ、僕は無理に英語を押し付けるのは違うとさえ感じている。
先天的に英語ができない子だっている。そういう生徒へのセーフティーネットの整備の方が、僕は大事だと思えて仕方ない。
―というところまで書くと、『ほら見ろ!日本の英語教育に良いとこなんてないじゃん!』みたいな早とちりを生みそうである。
これまたハッキリ言うが、僕は日本の英語教育の素晴らしい点もまた、ひしひしと感じている。
それらについては、次項にて。
『論文』や『記事』がスラスラ読める!『文』が書ける!『スピーチ』が得意になる!
リアルタイムなレスポンスが求められる英語は僕は苦手だが、そうでない場面のは割と得意である。
例えば、英語の『論文』や『記事』を読むスピードや内容の理解度は、センター試験の英文読解でかなり鍛えられたと感じる。
こないだも海洋生物の論文とか、筋トレのコツがまとめられた記事とか、英語のWikipediaとか、結構色々と読んでみた。
―やはり、スムーズに読めるし、頭にも入る。日本語の読解力を10とすれば、6~7程度の能力がついている感覚がある。
また、色んな文法を覚えた恩恵か、例えば外国の方とメッセージのやり取りをする際は、ぶっちゃけ全然難儀せずにやり取りできる。
これまた、よく議論となるひたすら英文法を学習することの恩恵だと思う。(同時に、全然使わない文法が多いのも実感するけれど)
つまり、『おしゃべり』的な英語能力はどうしても低くなるが、それ以外の英語力はちゃんと上がるのが、日本の『英語教育』のリアルだと思うワケで。
逆に言えば、幼少期にしっかり『会話』できる『語彙力』と『耳』を鍛えておけば、後は学校教育で割と間に合う、と言えるかもしれない。
悪いことばかりがよく議論の的になるが、こういう正の側面にも、きちんと目を向けた方が良い。どうしてもそう思う。
結局英語は、そういう環境に身を置かない限り、使うことは無いです。
そして最後にそもそも論。『英語を勉強して、使うことあるの?』という話である。
ハッキリ言うと、ぶっちゃけ無い。英語が話せなくても、正直困ることは稀だと思う。
『英語が使えれば、将来どの大学にも行ける』
『いずれ国外に移住するから、その下準備』
『子どもが興味を持ってくれている』
といった理由があるなら、是非とも学習を後押しし、継続してほしい。
だが特にそんな理由もなく、ただ周囲に流されて・・とかなら、英語が使えなくても困らないようなツールの存在を調べた方が良い気がする。
例えば、大体の英語の記事は、自動翻訳で結構理解できる。ちゃんとしたのが欲しければ、安価でアマチュア翻訳家に依頼する手もある。
また、外国に行った際は、スマホ一つで本当に何でもできる。カメラにかざすだけで和訳完了とか、もはやザラだ。
―こんな風に、世の中のグローバル化は確かに進んでいるが、同時にAIやインターネットの進歩もすさまじいものがある。
正直、英語教育の意義と言うのが、かなり揺らいでいる時期だとも思う。今後それをどう捉えるかは、これらも思案を続けなければならないと感じている。
終わりに。:今後僕は『英語』とどう向き合うのか?
そんなひねくれ者の僕だが、今後はどう英語と向き合うか。
正直に言うと、もうあまり肩肘張らずに、必要なときに必要な分だけそれに頼ろうと考えている。
仕事で使うので、例えば音読とか英語の動画を観ると言ったルーティンは続けるが、ガツンと能力を高めようという気は、今のところ無い。
通訳とかTOEIC900超えとかを周囲から薦められているが、やっぱり興味が湧いてこない。
だが、『英語で将来の夢を諦める生徒』や、『英語で自信を粉砕される生徒』の力になりたいとは、ずっと考えている。
やはりまだまだ、英語が先天的に苦手だったり、全く興味を持てなかったりする生徒へのケアは、極めて薄いと感じる。
僕が必要だと思うのは、やはりそういう子たちへのセーフティーネットである。
民間試験を使うとか使わないとか、記述がアーダコーダとか、文法偏重を是正とか、実のところ僕はどうでもいいと感じてる。
それよりも、英語が出来る人が得をするのは別にいいから、出来ない人が大損するシステムになんか補助が欲しい。
今僕が一番感じる本音は、本当にコレである。
ということで、実はあまり時間が無く、少々ワケの分からない話もしてしまったが・・。
皆様の考えにスパイスを加えられていれば嬉しい。
では、今日はこの辺で。