精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「心を観察する」というクセを意識したら、大体の苛立ちには”実態が無い”と気が付いた。

僕は他者の言葉より、感情や行動に対し、意識が向きやすい。生徒からの暴言(笑)はどうでもいいのに、奇声に対しては、強くストレスを感じてしまう。

 

そういう本能的に嫌いなことというのは、もうどうしようもないことなのだと、この4月頃までは諦めていた。しかし最近、新しい考え方を知って、少し変わった。

 

その新しい考え方とは、今まで知らなかった【観察のコツ】である。尚、ここでいう観察とは、己の心の内を眺める時間のことを指す。

 

そのコツを意識しながら目先のイライラと向き合うと、違った解釈や受け止め方を自然とできていることに、改めて気が付いた

 

このことは、特に子育て中の親御さんや、低学年の指導に当たる先生方に有益だなと、手前味噌だが感じている。

 

ということでこの記事内で、そのことについて書いてみる次第である。

 

 

心を観察する。

 

何かしらの感情に囚われている際、そこから脱出するために大事となる考え方とは、つまり「距離を取ること」だと方々で見かける。

 

ここでいう「距離」とは、もちろん物理的なものも含めるが、同時に精神的なものも入ってくる。相手は相手、自分は自分という割り切り方が、つまり後者だと僕は思う。

 

そして他人の言動に対し意識が向いてイライラしてしまうとき、もとい強い感情に呑まれてしまっているときに、精神的に距離を取る方法が、僕は知りたかった

 

そこで知ったのが、【寛容】という考え方である。ここでいう寛容とは、相手ではなく、まずは”自分を”許すことにある、という。

 

もっと言えば、イライラしている、感情を乱されている、そういう自分を認めること。そこが全ての始まりだとあった。

 

これ自体すごく難度が高く聞こえるが、実はそんなに難しい話ではない。「あぁ、イラついてるな、俺」と、どこか第三者目線で見つめ直すだけである。

 

さて。実はここまでの考え方は既に知っていたし、僕自身意識していなかったわけではない。しかし、ここから先の考え方で、すごく意外だったものがある。

 

それは、他者の言動に感情が乱されているときは、認識は自分の方を向いていないという指摘だ。これには正直、目から鱗であった。

 

例えば、ついさっきもトイレの方から子供の奇声が聞こえてきた(友達とふざけ合っていただけだった)のだが、そのとき感情が乱されると、こんな思考が噴出する。

 

「うるせぇな」「大声出したら迷惑って知らんのかな」「他の講師はなにしてんねん」「気が散るな」という風に。

 

どう考えても僕の器が小さいのだが、まずは認めることが大事なので、気にしない。そしてこれらの思考に適当な対象を補うと、色々と浮き彫りになってくる。

 

「(あの子ら)うるせぇな」「(あの子ら)大声出したら迷惑って知らんのかな」「他の講師は(あの子らに対して)なにしてんねん」「(あの子らの声で)気が散るな」

 

どうだろうか。自分の内面について完全に置いてけぼりであり、いわば感情という本能の部分に全てが持っていかれていることがよく見て取れる。

 

では、自分の感情がジャックされていることを認めて、その上で自分の内面に敢えて意識を向けたら、一体どうなっているのだろうか

 

先の例だと、「うるせぇな」と思った後、意識的に心に問いを差し向けるのだ。「うるせぇなと思ったのはわかった。では、それを別の言葉で表すとどう?」という風に。

 

―これまた目から鱗だったのだが、大抵は、その時点できれいさっぱりどうでもよくなる。つまり、なんと何も考えていなかったということだ

 

ついでに言えば、心拍数の変化も、まるで起きていない。僕の乱れた感情には、実体が全く伴っていなかったのだ。乱暴に言い切れば、マジで気のせいなのである。

 

この一連の流れは、いわば【心の観察】だ。これは僕オリジナルの言葉ではないと思ったので、そのまんま調べてみると、色々な僧の考え方が出てきて、ワクワクしている。

 

その中で、とてもしっくりきた、物事の捉え方に関する言葉がある。それは、「認識の捏造」というものである。

 

突発的な感情により、認識が歪められるということを、これほど端的に言い表している言葉は、なかなか無い。

 

ところで、認識と感情の違いは何なのか。ただ検索をかけただけだと、何故か「AI」に関する討論や論文ばかりヒットするので、ChatGPTに尋ねてみた。

 

感情は主観的な経験であり、情緒や情感とも呼ばれます。感情は、特定の刺激や状況に対する個人的な反応や感じ方を指します。感情はしばしば身体的な変化、心理的な状態、特定の感情の表現(笑顔、涙など)と関連付けられます。例えば、喜び、悲しみ、怒り、恐怖などが感情の例です。

 

一方、認識は知覚、理解、思考のプロセスを指します。認識は、外界の情報を処理し、解釈し、それに基づいて意味を形成する能力です。認識は知覚に基づいた情報の受容や、経験や知識に基づく理解、判断、推論などの高次の認知プロセスに関連します。例えば、物体の識別、言語の理解、問題解決などが認識の例です。

 

感情と認識は密接に関連しており、相互に影響しあうことがあります。感情は認識に影響を与え、逆に認識は感情を形成する要素となることもあります。しかし、感情と認識は異なる概念であり、異なる側面を持つ心の機能として理解されます。

 

乱暴に解釈すれば、「感情➡主観的かつ無意識かつ突発的に起きるもの」であり、「認識➡(やや)客観的かつ意識的かつ論理的に作られるもの」という感じか。

 

そして今回のケースでは、不快な感情によってつくられたネガティブに、認識の方が引きずられていると考えると、すごく合点がいく

 

そこに論理的なステップは何にも介在していない。だからこそ、その点を自問という形で己に投げかけると、「別に認識はブレてない」ことに気がつけるのだ。

 

僕はよくクールだと評される。笑顔が下手だと評される。でも僕は、皆が思うよりかは人間臭くて、もちろん感情的になることもあると思っている。

 

しかし、僕は思った以上に、大体のことに認識のレベルでは反応をしていないようだ。感情に関しては、勿論本能なので反応する。だが、それでオシマイ。

 

心の内を特に感情も意味も込めずに観察することで見えたのは、意外とハートが強いというか、図太い、自分という人間の一層深い本性であった。

 

ただし、これが良いことなのか悪いことなのかは、更に観察をしてみないと、全然見えてこないんだけどね。

 

ってことで今日はこの辺で。

 

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