精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

【観察】は、思考が止まってからの話なんですって。

すごく手前味噌の話だが、別のブログにて、オファーがあったわけでもないのにビジネス書を書くかの如く手間暇をかけて、20,000文字くらいの記事を書き続けている。

 

大学卒業時に書いた卒業論文の文字数もそれぐらいなので、僕という個人が人生で書いたものの内、最大の文字数となりそうなのはほぼ確実、てな具合である。

 

それだけ文字数があると、取捨選択の結果丸ごと消去したり、更に深めて考えたいけどそうすると本筋から乖離したりするテーマが出てくる。それは勿体ない。

 

てことでそういった副産物は、こちらで記事にして成仏させていこうと思う次第である。

 

今日はその内、【観察】をテーマにした話を書いていく次第である。尚これは、子どもの理解できない言動に少しピリッと来る人には、すごく響く話だと思う。

 

そんなことを書いたうえで、以下本題である。

 

 

【観察】≒思考。

 

「ありのまま」という言葉は、わかるようなわからないような、本当に解釈が難しい言葉だと思う。

 

子どもを含め、他人に対してストレスを感じるとき、ありのままの姿ではなく、ある種の期待や理想のフィルターを通して、その人を見ているのが遠因だとされる。

 

正直「いい子」なんてモデル像が頭に無ければ、あるいは「子供って落ち着きが無くて自然だよね」とフラットな価値観があれば、子供の言動の大抵はどうでもよくなる。

 

どんな風に思考すれば、その子のありのままを観察できるのか。今現在の振る舞いにヒヤヒヤするような感想を持たず、広い心で接することができるのか

 

そういう目線で自問自答してきたのだが、最近、その前提がそもそもおかしいのでは、と思うようになっている。

 

きっかけは、スマナサーラ長老という、仏教の一宗派?の方の対談記事を読んだことである。すごく半端なところで切る形になるが、特にこの部分が刺さった。

 

小倉:僕、「目をつぶって瞑想しなさい。無になりなさい」って言われても、いろんなことが頭に浮かんできて、なかなかできないと思うんですよ、僕の性格から言うと。

 

スマナサーラ:伝統的に思われている瞑想は、”仏教の瞑想”じゃないんです。”仏教の瞑想”は、“observation=観察”なんです。観察する時は、思考が邪魔なんです。

 

小倉:観察する時は、思考が邪魔

 

スマナサーラだから思考をやめて、観察する

 

www.nhk.jp

 

僕はどんな思考をすれば、観察が円滑に進むかを考えていた。しかし実際は、観察そのものにおいては、思考がそもそも邪魔なのだ。

 

さながら、ダイエットをしようと試行錯誤する中で、どんなハンバーガーなら食べてもいいかを考えるようなものだろうか。そもそも食うなという話に近いのではないか。

 

そして長老は別の記事で、思考そのものについても解説してくれていた。

 

一般的に思考とは、考えることです。思考とは、言葉で考えることだけではありません。概念の回転も思考です

 

概念には言葉は要りません。言葉がなくても私たちが知っていることはたくさんあります。

 

それから、感情の回転も思考とします。思考とは、心の仕事のこと全般をいうのです。

 

その思考には三つの層があります。

 

①私たちが気づいている感情と思考(表面)です。これは皆さん知っています。いま考えたり感じたりしていることはわかっていますね。

 

次に、②たまに気づく無意識という感情(背面)です。無意識とは仏教用語ではなく現代の心理学用語です。

 

そして、③持って生まれる基礎感情(潜在煩悩)があります。この三層です。

j-theravada.com

 

観察とは、思考すなわち今気づいている感覚・感情も、たまに気付くような無意識も、持って生まれる基礎感情も、止まった後に可能となるもの。

 

そう思うと、自分の中で何かが更新されるのを感じる。

 

もっとも、潜在煩悩については学ぶべき難解なテーマが膨大にあることがわかり、そこについては勉強も仮説もなんにも追いついていない。いずれまた、という感じだ。

 

そしてこのことを念頭に置くと、自分が真に何かを観察できていると思うときは、確かに、思考が特に働いていないような気がするのだ。

 

一例を挙げて説明する。

 

僕は水族館が好きだ。非日常的な空間がどうこうという大仰な理由はなく、単に魚が好きで、ただただずっと見ていられるためである。

 

水槽の中を泳ぐ魚に見入る。そのとき、僕の頭の中はすごく澄んでいる。邪念も雑念も無い。ただありのままの、魚たちが泳ぐ姿を”観察”している。

 

仮に大きな魚が自分にガンを飛ばしてきても、感情も言葉も一切が頭に湧かない。他の客の存在も、完全に僕にとっては無いに等しい。

 

―このプロセスを思い起こしてもやはり、真の観察は、確かに思考を通さないことが分かるように思う。

 

実際、水槽を眺めているときの胸の内を後になって言葉にしようとすると、滅茶苦茶困ることが多い。全く思い出せないからだ。

 

言葉にもせず、ましてや感情的な反応もせず、いわば明鏡止水のような心境で眺めているとき、僕は本当に観察できているということなのかもしれない。

 

まだまだ修行が必要だなと思う。でもだからこそ、その過程を楽しむ時間がたくさんあるな、とも思う。

 

平穏なメンタル目指し、僕なりの観察力の鍛え方を、更に磨いていきたいと思う。

 

では今日はこの辺で。

 

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