精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

マインドフルネスでよく言われる、「切り離す」の正体がちょっと解った。

今回は少しスピリチュアルな話だが、心を安定させるための心構えについて語りたい。もっと言えば、無駄に感情に振り回されないようにするための方法に関してだ。

 

「感情を”切り離して”冷静に考えることが肝心だ」とよく言われるが、実はこの”切り離す”の部分が、あまり腑に落ちていなかった

 

「切り離す」という言葉それ自体の意味はうっすら分かるのだが、それは具体的にどう実践すれば良くて、どんな思考プロセスを指すのか。これが見え辛い。

 

これが難しい部分なのだが、取っ掛かりすらわからない数学の難問に相対するがごとく、億劫すぎて一切腰を据えて向き合ってこなかった課題である。

 

しかし最近偶発的に、メンタルをボコスカ殴られるような出来事が連発し、そのウィークポイントと向き合う必要性が急激に増している。さもなければ折れそうだ。

 

そうした事情もあり、この数日、自分の中で「切り離す」についての理解を深め、具体的な方法を模索してみたくて、あれやこれやと試行錯誤する時間を取っている

 

その経験値が記事1つ分くらいにまとまる程度になったので、ここで一旦棚卸しておこうと思う。今日はそんな内容である。

 

 

一番腹落ち感のある【切り離す】の定義。

 

神や仏という言葉が目を惹くが、「切り離す」という言葉についてすごく得心を得たのは、以下の説明だ。

 

体をいつもとは違った状態にして、一つのことをじっくりと観察すると、自身の心と体を見る自分が生まれてきます。

 

瞑想を行うことで、修行を積んでいる宗教者には、神仏と一体化する、あるいは神仏と自分は実はひとつであるということがわかるといいます。

 

これが様々な宗教にある神秘体験であり、「悟る」という一番究極的な部分にふれるところです。

 

ですから、宗教者は神や仏といった、見えない力に生かされて存在しているということがわかってくるのです。

 

通常の表層意識を、より高次の自分が見ているという状態が出てくる、これが瞑想の一番基本的な原理です

スピリチュアル・ライフのすすめ ―仏教の修行を科学する | 真言宗智山派 総本山智積院

 

確かに瞑想を行っていると、呼吸をしている”肉体”とも、頭の中に生じている”不安”とも違う”なにか”が、それらを観察しているような感覚を得られる

 

面白味が無い言い方をすれば、扁桃体で認知している世界と、五感で認識している世界を統括し、冷静にそれを眺めている意識を持っているような気になるのだ。

 

例えば「今思えばあのときの言動はムカつく!」というのは扁桃体の暴走と捉え、「でもそれはお前の妄想じゃね?」と、冷静に自分で自分に突っ込む感じに似ている。

 

感情的に反応する僕。光や音を感知している僕。それらを取りまとめる高次的な意識。この図式を頭の中に作ることが、「切り離す」の言わんとする境地ではと感じている。

 

「切り離した思考」に到達する方法3選。

 

その境地には、どうやって至ればいいのか。もちろんまた瞑想の習慣を追加し、地力を鍛えていくことも大事だが、それ以外なら自問自答が効果的だと感じている。

 

自分から自分への問いかけというのも不思議な話だが、その一瞬の間を入れるだけで、感情的な反応から離れ、冷静に状況を観察することができるからだ。

 

その中でも特に、僕にとって機能した自問自答を抜粋し、紹介してみよう。

 

①「今の気持ちを三文節以上で説明してください」

 

自分が何かしらに苛立ったり不安感を覚えていたりする際、それが全く実態や実感を伴ったものでは無いことを浮き彫りにするのがこの自問だ。

 

「むかつく!」「いらいらする!」という感情的な反応だけなら、特に内省をせずとも言葉にできるのだが、そこに修飾を付けるとなると、理性による分析が要る。

 

「10分前に起きたクレームの電話によって自尊心が傷つけられ、憤りと屈辱の入り混じった感情を覚えている」という描写は、もはや感情的ではないのだ。

 

そして理性を以てそういうネガティブを観察しようとすると、それを言葉にすることに難儀することが物凄く多い。その内に何をクヨクヨしていたかさえ、忘れてしまう。

 

さながら適当な虚空に「お化けがいる!」と指さして、その部分を観察して描写するようなものだ。何もないのだから、言葉にできるわけもない。その通りだと思う。

 

②「その出来事は何時の話ですか?」

 

自分の心が囚われている対象は、目の前で起きていることだけとは限らないし、何なら既に起きたことや、まだ起きてない未来の妄想であることの方が圧倒的に多い

 

例えば出来事自体は10年前くらいの黒歴史であり、それについて解釈をあーだこーだと考えるのは時間の無駄である。ただ、それに気づくには、一つ工夫が要るわけで。

 

扁桃体は不安といった、原始的な感情を司る部分だ。不安を生み出したいから、過去の嫌な記憶を勝手に引っ張り出していると思えばいい。

 

さながら親の注意を引くためにおもちゃを振り回す子供のようなものだ。それをクールにさせるには、時間軸について意識を向けられれば御の字である。

 

③「その不安は何をすれば解消されますか?それは可能ですか?」

 

不安とは準備のモチベーションとよく言われるが、ひたすら不安だと思い続けていても、それを健全に活用することはできない。意識を向け直す必要がある。

 

だからよく、僕は僕に問う。「その不安は何をすれば解消されますか?」と。そのうえで、こちらにできることだけを冷静に選び、取り組んで、その上で待つ。

 

仮に「相手に『お前を許す』と言質を取ること」がそうだとしたら、「それは可能ですか?」と差し向ける。大抵は無理だし、何なら本質的な解決にもなっていない

 

具体的で実際的な答えが返ってくるまで、何度でも扁桃体からの提案を突っぱね続ける。ここに必要なのは慈悲というより根気だ。

 

こんな風に、自問を起点として、理性によって感情的なレスポンスを御していく。「切り離す」の意味合いがここだとすれば、やはりすごく、合点がいく。

 

他にも実験中の施策がいくつかあるが、まだ試行段階だ。感情に対する切り離しの解像度を高めるためにも、更に仮説を立て、検証し、納得いくまで観察を続けるつもりだ。

 

そんなことを書いたところで、今日はこの辺で。

 

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