ここ最近、「感情と認識」という2つの言葉に興味が湧いて、空き時間ができる度に自分なりの勉強を重ねている。
感情とは本能的かつ突発的なもので、これを止めることは決してできない。しかし認識は別だ。こっちはロジカルな思考であり、それを変えることは十分に可能だと言える。
とはいえ僕はADHDかHSS型HSPの気質があるせいか、感情という衝動的なものの力が強く、一度それに囚われれば、長いこと不快な気持ちが持続するのが悩みである。
正直ここ最近、感情が揺さぶられる出来事が多くて、本当にしんどい。詳しくは書かないが、不登校とか、誰かが死を意識するほど弱っている話とか、とかとか。
こういう情に対し一切抵抗せず、徹底して浸る人もいる。だが僕は、そうすることに耐えられるほど、心が強くないことを自覚している。
対象と意図的に距離を置き、そしてその感情を遠くから観察するように接さないと、その内ぶっ壊れるというのは常々感じていた。
―そんなときに偶然知ったのが、瞑想のレパートリーの1つ、【観察瞑想】というものだ。そのやり方を知って試したとき、今までにないくらい、すごく腹落ちした。
今日はその効力を、やや興奮しながら、記事にまとめていく。
【観察瞑想】とは何か?
いくつかのサイトを参照すると、その定義にはある程度のブレがあるようだとわかった。それ自体は仕方ないし、さして問題もないので、気に留めない。
とはいえ大枠は同じなので、それを参考にして考えた僕なりの【観察瞑想】の定義を、ちょっと小難しい言い回しで表すと、こんな風になる。
自分に現れている感情や思考を、他人事として割引いた状態で、観察する。
という感じだ。例えば僕が何かに苛立っているのを察知したら、「苛立っているな」という印象だけ抱き、それで終わりにする感じだ。
虫かごの中にいる昆虫を外から観察するように、行為・思考の一つ一つを、ただそれだけとして受け止めて、淡々と認識する。それが僕なりの観察瞑想である。
これの優れた点は、対象と認識の間に、一瞬で距離を作れる点にある。感情に浸るのではなく、感情が発露している自分をどこか遠くから見ている感覚を持つことができる。
映画か何かで泣いている人を見ると、「人が泣いている」と思う。それと同じように、仕事が終わらず不安な自分に気づいたら、「不安を感じている」とだけ思う。
不思議なもので、そうやって「認めてしまう」だけで、大抵はその感情が終わる。理由はわからないが、本当にそうなるのだ。
・・・これだとあまりにも解像度が低すぎるので、ここから頑張って、もっと言葉に落とし込んでみる。
観察瞑想をすることには、結構な語彙力を要求される。それはなぜかというと、感情が「ムカつく!」と一言で処理している何かを言葉にする必要があるためだ。
だから、時には自分に対し、問いを差し向ける。「誰に対して?」「具体的な感情は?」「プルチックの輪で言うところのどこ?」という風に。
そしてその自問に自答するうちに、感情はすぐ鎮火して、思考がニュートラルに戻る、という感じに近い。
それか、単に不安という漠然とした何かだったものが、具体的な行動に置き換わることもしばしばだ。自分で自分にカウンセリングをしていると言い換えてもいい。
繰り返しになるが、虫かごの中の昆虫の生態を眺めるように、何かに憤ったり不安がっていたりにする自分を観察すること。これを心掛けてみてほしい。
ちなみに僕はわざわざ座禅を組んでこんなことをする時間は取っていない。平時、こっそり観点を変えて遊んでいるという感じだ。
どこでもできるという意味でも、この観察力は鍛えておいて損はないと思う。
【観察瞑想】が得意な人たち。
イメージとしてストレスに強いというか、ストレスが少なそうな人は、得てしてこの【観察瞑想】が得意なことが多い。
言い換えれば、自分を客観視する能力にすごく長けている、ということである。その人達の著作を読み耽っていると、そのことがよくわかる。
良くも悪くも、全てが他人事というか、それを面白がったり、俯瞰で観察したりと、それに囚われることが無い。思考だけならサイコパス的なものにさえ近い。
いわば、【観察瞑想】的な思考を会得できれば、ストレスをかなり軽減できる可能性が高いということである。これはなおのこと、やる気が出てくる。
ただ眺めて、ただありのままを見つめる。全てに観察の心構えを持つことができれば、色々と有益そうだと、改めて思った。
では今日はこの辺で。