今日は、「ネガティブな感情の解釈を変える」というテーマで、記事を書いてみようと思う。
昔の僕もそうだったのだが、不安・イライラ・恐怖といったいわゆる好ましくない感情については、なるべくそれを”消したい”というのが大体の人の考えだと思う。
実際こういった好ましくない感情や欲については、仏教でも【三毒】という風に説かれており、何かしらの特別な対策が必要であるという風に教えられている。
その対策の1つとして、自分の感情が今その状態にあるんだと認め、さながら空に浮かぶ雲のようにそれが流れて、そしていずれ消えるのをただ眺めるというものがある。
いわゆる瞑想や観察と呼ばれるものだ。こんな風に、自分自身をその感情から切り離して、ただ他人事として眺めるような意識でそれをやり過ごすってのは、確かに有効だ。
しかし、個人的には、もう1つメインで使ってる考え方があり、そちらの方が性に合っていると感じている。
まだ練習の途上だが、それはネガティブな感情の解釈を変えるということである。今日はこっちについて、今から記事にまとめていく。
その感情の裏には何がある?
まず念押ししておきたいのは、感情それ自体は良いも悪いもないということだ。これは脳みそに刷り込まれた本能であり、 それ以上でもそれ以下でもない。
では、好ましくない感情(不安とか)っていうものをなぜ、僕らは”好ましくない”とレッテル貼りするのだろうか。
思うに、その感情が伝えてくれるものが、大体嫌なことそのものか、それを伴うからっていうのが原因ではないかと考えている。
例えば不安という感情は、自分の目の前に未知のものがあり、その正体がわからないがため、それに対し恐れを抱いている状態みたいな感じだとされる。
ここで、最初の話に戻る。感情の解釈を変えるというのは、どういうことか。それは、その感情が無意識に教えてくれていることそのものにフォーカスすることだ。
勿論シンプルに、響きがいい言葉に置き換えるっていうのもそれに当たるが、自分自身をしっかり観察することで、別の側面を認識しておくこともすごく大切である。
例えばさっきの不安の例で言うと、不安を感じるということは、自分が今、わからないものに相対しているサインとなる。
このことをちょっとポジティブに考えれば、未知のものに関心が向いているということなので、つまり好奇心が発動してる状態ともいえる。
「自分には好奇心がない」という人はたまにいるが、「自分には不安がない」という人はほとんどいない。しかしこれらは、同じ感情の解釈の違いなだけかもしれない。
未知をネガティブに解釈すれば不安であり、ポジティブに解釈すれば好奇心っていう、ただそれだけなのではないか。何も難しい話ではなく、そんなものだと思う。
ところで、最近自分の中で色々研究しようと頑張っているのが、苛立ちという感情だ。何度か言ってることだが、未だに手がかかる子に対して、僕は結構苛立つ。
注意されても、それを面白がって怒られるのことを繰り返すタイプっていうのは本当にイライラする。その対象に年齢は関係ない。僕の課題だとも思う。
ただ同時に、単にイライラして消耗するだけだともったいないという感想も持つ。苛立ちという感情は、受け流す以外に活用できないものだろうか。
そう考えていると、これはあくまで僕の例なのだが、僕が何かに苛立っているときは、大体共通する原因があることに気が付いた。
それは、目の前で問題が起きていながら、自分が解決策や次の一手を持たないという状況だ。この中にいるとき、確かに僕は、滅茶苦茶イライラする。
これを解決する方法は死ぬほど簡単で、10分でも20分でもいいからまとまった時間を取って、知識を仕入れるだけである。
もちろん僕がイライラしているからといって、それが全ての原因というわけではない。あくまで一部だ。
例えば単に寝坊して時間的余裕がなくなったとか、僕の時間を軽んじるような言動を取られたとか、他にもトリガーはある。だがこっちは、基本的にスルーだ。
しかし、こういう正の側面に意識が向いてからというもの、苛立ちと感情について、思い直すことができたと感じている。少なくとも、こちらの方が健全だ。
こんな風に、感情というものは良いも悪いもなく、本能にすり込まれた認知の一つなので、防ぐことや、消し去ることは、絶対にできない。
だからこそ、いちいち振り回されるのは論外として、ただ眺めるだけでもったいないというのであれば、そこに隠れている前向きな点に目を向けることをオススメする。
ということで、今日はこの辺で。