精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

【後編】最近やたらイライラする?なら、「理性の歌を聴け」。

これは昨日の記事の続きである。

 

 

長めの内容なので、ChatGPTにザックリと要約してもらった。結構雑に指令を出したのだが、悪くないクオリティではないかと思う。

 

著者は、扁桃体の役割と前帯状皮質前頭前野)の重要性について語っています。

 

扁桃体は情動処理と記憶形成に関与し、不安や恐怖の感情に大きな影響を与えると説明されています。

 

帯状皮質は高次の認知機能を担い、思考、創造性、意思決定などを制御する役割を果たすと紹介されています。

 

扁桃体の暴走が恐怖や怒りにつながり、これを「扁桃体ハイジャック」と呼びます。

 

文章は、感情と理性のバランス、脳の発達、そして感情を制御する方法について議論しています。

 

扁桃体は悪ではなく、制御が必要な要素であると強調されています。最終的に、感情を制御し理性に結びつける方法についてのテーマが提起されています。

 

―ということでここからは、感情からの声に対し無駄に反応することを減らし、理性を以てそれを聴くにはどうすることが必要なのか。

 

そんな話を書いていこう。

 

 

「理性の歌を聴け」

そもそも、なぜ扁桃体は、前頭前野の制御を”振り切れる”のだろうか。大人の手を振り払って駆けだしたり泣いたりする子供のような、そのエネルギーはどこから来るのか。

 

原因になりそうな仮説は、2つほど浮かぶ

 

まず、扁桃体前頭前野を振り切るケースとして、前頭前野の機能が弱まっているとき、というのが挙げられる。つまりストレスや疲労が溜まっているときだ。

 

最近、ストレスは霊長類で最も発達している大脳皮質前頭前野前頭前野:図1)にも影響を及ぼし、高度な精神機能を奪ってしまうことが分かってきました。

 

ストレスは、感情や衝動を抑制している前頭前野の支配力を弱めるため、視床下部などの進化的に古い脳領域の支配が強まった状態になり、不安を感じたり、普段は抑え込んでいる衝動(欲望にまかせた暴飲暴食や薬物乱用、お金の浪費など)に負けたりするというのです。

 

www.toho-u.ac.jp

 

という感じだ。そして、ここはかなり怖いループの入り口だと言える。疲労が溜まれば感情が好ましくない水準で発露し、他者と軋轢を生み、新たなストレスを生む

 

こうやってぐるぐる回っていくと、心はあっという間に疲弊するだろう。シンプルではあるが、それゆえに恐ろしく、かつ無自覚になりそうなエラーだろう。

 

そしてもう一つは、これは遺伝的なモノか環境的なモノかはわからないが、前頭前野そのものを鍛える機会が乏しく、発達が不十分というものだ。

 

少し嫌な言い方だが、すごく甘やかされて育った、家庭環境にある種恵まれた人たちは、得てしてその態度が幼いと感じることがある。

 

一方、そこそこ壮絶な過去を背負っている人で、かつ特に脳に機能障害を負っていない人は大抵、驚くほど精神年齢が高いという印象を持っている。

 

こんな風に2つの仮説が考えられる手前、それぞれに適切な対策を打っていくことが、次のステップになるだろう。

 

疲労については、肉体的なものはたっぷり栄養を摂ってしっかり寝ることで、ある程度は緩和・カバーできるだろう。難しく考える必要はない。

 

しかし精神疲労はまた別だ。寝ても消えないどころか、眠りそのものを阻害し、メンタルを病ませる厄介者になってしまうこともしばしば、である。

 

だから別途何かしらの措置が必要なのだが、それを調べていく内に、ある面白い繋がりに気が付いた。

 

精神疲労を緩和させる取り組みは、そのまま理性の力によって扁桃体による反射を鎮める力を向上させることにも繋がるのだ。これは面白いと思った。

 

もっとも、具体的なワークを列挙すると非常に大量の情報がヒットしてしまうので、精神疲労を緩和させるために大切な、ある意識について、先に紹介しておく。

 

そのヒントになったのは、昔読んだ【START WITH WHY】にある記述だ。

 

それは、いわば動物的な本能ともいえる原始的な感情は、言葉にするのが困難な無意識下のレスポンス、という話だ。ここに刺されば、人は動くという文脈だったかな。

 

しかし同時に、「確かに、イライラしていることや過去・未来への不安を言葉にしようとすると、結構難しい・・・というよりほぼ無理だな」という感想も持った。

 

実際ここ最近、自分の脳内に苛立たしいなにかが湧いたときは、自分に問いを差し向けている。「それを具体的に三文節以上で説明してください」と。

 

するとどんぶり勘定になるが、8割以上の場合において、端的な感情を言うことさえできないのだ。

 

例えば「腹立たしい!」と一応思ってみるが、「いや、そこまで激しい感情じゃないな・・」「不快感?どうだろうな・・」という風に、堂々巡りが始まる

 

気付けば、「何に苛立っていたっけ?」という風に、間抜け全開だが、そこから忘れることがしばしばなのだ。本能が生む感情は、これくらい実はいい加減なのである。

 

これはつまり、言葉にするのが困難な感情・情動は本能によるただの反射であり、理性が一切介在していないのではないか。僕という人間の総意では無いのではないか。

 

逆に言えば、それを「ただの反射」と察知し、理性による分析を差し挟んで距離を置くことで、扁桃体を御せる可能性が高まるという話に繋がってくる。

 

子どもが泣き叫んでいるときも、保護者や先生が、その感情を言葉にしてあげることで、落ち着きを取り戻すというエピソードをよく聞く。それにすごく似ている。

 

実際、感情を”切り離す”とは、本能による反応に飲み込まれないよう心がける的なことを言っていると、最近は得心している。

 

例えば怒りといった好ましくない反応を頭の外に出して言葉にすることを「外存化」と呼ぶが、これは最もわかり易い”切り離し”の一例だ。

 

筆記開示がメンタルヘルスにおいても効果がかなり高いとされるのも納得だ。意識の中だけで行うには難しい”切り離し”を、最も手触り感をもって行える方法だからだろう。

 

―ここまで書いて、ふと気づいたことがある。矛盾しているように聞こえるが、仏教の瞑想で目指すゴールは、意識の中で感情を外存化することだという話だ。

 

例えば長老とされる方の助言に共通することは、内側に生じる感情や、他者からの言動を、他人事として受け止めなさいという考え方だ。

 

ここを言語化するのは確かに難しいのだが、何かを言われたとして、それを言われた自分を、高次の意識で観察することが大切という風によく説かれている。うむ、難しい。

 

しかし「頭に来てもアホとは戦うな」でも書いてあるが、幽体離脱して自分を俯瞰するイメージもまた、このモデルを言っていると思うと、結構得心する

 

もちろん、他人事として受け止める姿勢がそのまま、責任感が欠けていることを意味するわけではない

 

むしろ、責任感の名のもとに、問題と向き合わず、自責に終始し、罪悪感に押しつぶされる方が無責任ではないか。

 

円滑な人間関係やストレスの軽減、事態の冷静な俯瞰のためには、やはりこういった感情と理性の切り離しが非常に有効だと思う。

 

感情的になること自体、人間である限り避けられない性質だ。しかしそれを察知し、意識的に切り離す練習は、訓練次第で鍛え続けれるはずである。

 

そう信じて、嫌にならず、仮に嫌になってもそんな自分を観察できるよう、日々コツコツと他人事に感じ取り続けようと思う。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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