精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

生徒や子どもに植え付けてしまってない?【恥】という感情は、想像の数億倍厄介です。

最近ガッツリ自分にカウンセリングを入れて知ったのだが、僕を突き動かす欲求は、大きく分けて2つあるらしい。しかも綺麗に、ポジティブとネガティブに分かれる。

hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com

 

ポジティブな方で言えば、「好奇心の追求と、集団への貢献欲求」という風にまとまる。勉強したことを共有したい気持ちは強いと自負しているので、これは納得。

 

そしてネガティブな方がこれまた厄介で、「自己保身欲求」と呼ばれるものが、僕はとても強いようなのだ。(平均値は知らないが)


ちなみにここで言う自己保身欲求とは、誰かを踏み台にして地位や立場にしがみつきたいという意味ではなく、拒絶的な言動を食らいたくないという意味である。

 

そういう意味では、僕が人を頼るのが苦手なのも、クレーム対応が本気でしんどいのも、暴力的なコンテンツを見るだけでゲンナリするのも、繋がりが見えてくる。

 

ではなぜ、僕は「自己保身欲求」が強いのだろうか。それくらいトラウマめいた記憶が僕の中にあるのだろうか?育ってきた環境は、そんなにも悪かっただろうか?

 

そうやって自問自答してみたが、手応えのあるヒントは見つかっていない。しかし、「自己保身欲求」が強いことと≒で結べる話には思い当たった。それは、【恥】だ。

そしてその歪みは、幼少期から始まるのだという。恥を乗り越える訓練や経験、愛情が不足したまま育ったことで、どんどん醸成されるそうだ。だから厄介なのである。

 

心当たりは無いが、現実として生活に支障が出ている手前、放置できない欲求だ。せめて軽減するか、ポジティブな働きへ転換したい。

 

今日はそれについて、調べてみたことをつらつらとまとめていこう。

 

 

【恥】という恐怖を植え付けるのは簡単だが、取り除くのは困難だ。

 

【恥】に対する強い恐怖や嫌悪は、どこから来るのか。これはなかなかに根深いのだが、幼少期に遡るのだという。

 

【恥】とは言い換えると、挑戦についての失敗に伴う感情であるが、子供の好奇心が向かうままに物事に手を出せば、必ずセットでやってくる感情だともいえる。

 

その【恥】自体の経験値が少ないまま育つ。あるいは、【恥】を誰かに緩和してもらえないままに育つ。そうなると人は、そこに強い恐怖を抱くようになっていくらしい。

 

成長や挑戦を拒みながらも、自分は他人より優越していると思い込みたい。そんな風に自己愛が拗れていくケースに派生していくこともあるそうだ。なかなかに痺れる話だ。

 

そして、この言葉はあまり好きではないのだが、いわゆる「毒親」が好ましくない理由も、実は【恥】の感情を使って子供を支配するからなのだという。

 

例えば「誰がお前の教育費を払っているんだ!」とか、「こんな点だと本当に恥ずかしい」といった心的なコントロール傾向が高いと、子の発育に悪影響が出るらしい。

 

ちなみにこのことは子どものいない僕にとっても例外ではなく、教員・講師が子供のコントロールに恥を振りかざすとき、非常に強い悪影響を与えているという話なのだ。

 

その子が自己愛を拗らせて、社会的に面倒な人間に育つ。そんな導きをする人など目も当てられない。

 

【恥】という恐怖を植え付けるのは物凄く簡単なのに、それを取り除くことは、地雷除去並みに難しいのかもしれない。

 

あなたはどうだろうか。

 

【恥】を生じさせているのは、理想の自分説。

 

【恥】を生じさせているものについて、ここ最近一番心に残ったのは、以下の逸話だ。

 

では、恥はいつ感じるのか。ラジオで出会った臨床心理士、クリスタ・ボイエセンの著書『恥』によると、【理想の自分】と【現実の自分】の間の乖離が大きく、そのことを【現実の自分】が責めるときに、恥を感じるのだそうだ。

 

デンマークでよく例えられるのは、仕事を失った時や、失業期間が長期に及んだ時だ。労働はこの国の価値観の中で、歴史的、文化的に尊いものだと考えられてきた。また現代では仕事が人々のアイデンティティにもなっている。

 

そんな社会の中で、仕事をしていないという状態は恥の感覚を呼び起こされる、とても辛い状態だ。

www.huffingtonpost.jp

 

これは面白い指摘だと思う。そして、強くその通りだとも思う。心のどこかに理想の自分像を抱えていて、それを現実の自分が満たさないとき、【恥】に繋がり得る、と。

 

この観点から、僕が【恥】を感じたという感覚を得た思い出をほじくると、ある種の共通点が見えてくる。

 

例えば、走り方や泳ぎ方が変だと揶揄われた記憶には、運動ができるはずという根拠のない自信や理想像が隠れているのではないか。そんな風に。

 

ところで、【恥】の感情を克服するために大切な心構えとして、主に2つの思考がよく紹介されている

 

1つは「客観視」だ。例えば自分が行為をしているというより、行為をしている自分を遠くから観察している気分で眺める、という風に。

 

たったこれだけで、恥の感覚が劇的に軽減されるそうだ。更に、他人に声をかけるように、脳内で自分自身にメッセージを送ると、更にその効果は増すという。

 

yuchrszk.blogspot.com

 

そしてもう1つは、「ありのままの自分を受け入れる」というものだ。これは言い換えると、理想の自分以外認めないのを止めることではないかと、最近は考えている。

 

もっと科学的な物言いをするなら、「自己肯定バイアスや自己否定バイアスを伴わず、自分自身を客観的に見つめること」という感じだ。

 

ここまで書いて驚いた。なんと、この2つは別々に見えて、ほぼ同じことを言っているのだ。

 

客観視とは、他者という目線で自分を眺めることであり、自己肯定バイアスや自己否定バイアスを介さない「ありのままの自分」を認識する見方。

 

こうすれば一文にまとまってしまう。我ながら驚きだ。そして基本的にこういった見方や受け取り方は、やはり他者から注がれて初めてわかることだともいえる。

 

まとめよう。

 

まず【恥】に伴う強い嫌悪感や恐怖心は、幼少期に根源が潜んでいる可能性が高い

 

例えば【恥】によってコントロールされた過去がある、【恥】を肯定してもらえなかった、など。故にそもそもの経験値や身の処し方を学ぶことなく成長することになる。

 

結果、【恥】はかきたくない、でも成長するには【恥】が要る、それは嫌だ、自分をすごく見せよう、理想の自分が絶対だ、といった拗れた自己愛に発展することもある

 

これを少しずつ緩和するには、客観視のスキルを会得し、【恥】を認識した際、都度自分自身を遠くから観察するモードを発動することが一助となる

 

こんなところだろうか。しかし、なんと厄介な感情だろうか。一番念押ししたいことを、もう一度書いておこう。

 

【恥】という恐怖を植え付けるのは物凄く簡単なのに、それを取り除くことは、地雷除去並みに難しい

 

僕も人の心に【恥】という地雷を埋めないよう、言動に気を付けようと改めて思った。

 

では今日はこの辺で。

 

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